私的MVベスト10 in 2010s
1. David Bowie - Lazarus
死や死後についての歌のアルバムを、発売直後の自らの死によって完成させた、人生に一度しか作れないコンセプト・アルバム。それはまた、「アルバム」というものが成立しえた2010年代半ばまでに可能なものであっただろう。そうしたいくつもの終わりに取り囲まれたアルバムの一曲。これが発表された3日後に作者の死が公表され、その映像はひたすら歌手の不在だけを示すこととなった。それはdb最後の、究極の死の表現となって、世界に吹き荒れたのであり、これ以上のコンセプト・アルバムを想像することは容易ではないだろう
2 Holly Herdon - Eternal
詳しくはわからないがAI支援されていることで知られている曲。映像も明らかに異様で、むしろ知能が歪んでいくようでさえある。普通でない音域のコーラスとビートで構成された(いわゆる微分音を用いているのだろう)、現時点で最先端といえばとりあえずこれが上がるのではないか。2019年。
3 FKA twigs - Pendulum
ミュータントを名乗るアルカがプロデュース。時代を画するような鋭角的な音楽のみでなく、突然、日本の倒錯の美学であったことが終盤に判明して驚く。2015年。
4 Kaneye West - BLKKK SKKKN HEAD
ハードなファッション写真の表現などで知られるニック・ナイトが製作した。明らかに人間でない人影がうごめく映像。それはまたブラック・ライブズ・マターの露悪的な表現でもあって、2010年代前半のアメリカを思い起こさせるだろう。
5 初音ミクの消失
実際の作曲は2008年だが、正式なアルバムに加えられたのは10年だった。インターネット内で出現したカルチャーの、日本における代表格ではないだろうか。文字をメインに作られたその映像は叙情を誘うが、何度も転載されて、2020年を迎えても消失していない。
6 Ethnic Zorigoo Ft A Cool, Zaya & Frankseal - Tengeriin huch
無数の刀傷を顔に創った男たちや、酒を酌み交わす笑顔とその憂愁などが繰り出されるヒップホップ。きらめくキーボードにパーカッションやスロートボイスなどが組み合わさった、力強く自信に満ちたトラックとともに、アジアでもまず確固とした文化はモンゴルから登場したと思わせた。単に欧米のビートに自国語のリリックを乗せたという以上に、はるかに深く完成されている傑作。これにヘビーメタルも続くだろう。2015年。
7 M.I.A. - Borders
シリアからの難民がヨーロッパ各地で問題になり、EUの理念の一つのはずだった「国境の移動の自由」までもが動揺した2016年に発表された。現在もシリアの問題は解決していないが、そこになお記念碑的なイメージを打ち出したものだと思う。多くの賛成と、より多くの批判を招いたことでも有名。
8 Howie Lee & Teom Chen - 明日不可待
口から金を吐き出す男や、不必要なまでに痙攣している男たち、過剰なネオンライトで飾られて飛来する仏像など、北京のベースミュージックのトップクリエイターによる音楽と映像。何もかも過剰で慌ただしく、待つことができない。リアルとバーチャルが入れ替わり出口のない世界が繰り広げられる2019年作。
9 地元に帰ろう音頭
00年代にサンプラーをリセットし、サインウェーブだけの演奏でアルス・エレクトロニカ金賞を獲得したSachiko Mは10年代に入ると突如、ソングライティングの才能を開花させ、日本レコード大賞まで獲得してしまった。その歩みは、さらに同時期のプロジェクトFukushima!とも合流して、新しい音頭を作るばかりか振り付けまで行い、ライブでは自ら歌うことさえある。その幾つかの流れが合流した映像。震災以後の中、漂流を余儀なくされる状況の中で、私たちにとってありうる、いくつもの地元を(言いかえれば、どこでも地元になりうるのだというメッセージのような)指ししめすような問題提起の曲でもある。
10 勸世阿北ㄉ尚水燒肉粽
おそらくヴェイパーウェイブの聴きすぎでおかしくなってしまったのではないかと思わせる、ただチマキが回転しているだけの映像にチープなトランスが乗っかっている曲。2016年。歌っているのは台湾きっての先鋭的な芸術家である黃大旺(ファン・ダワン)で、歌詞は「すてきなチマキ」と言っているばかりであるそうである。同じテイストでアイドルが歌っているものもあり(黃大旺とデュオしているコンサート映像もあり)、あまりに早すぎて時代がついてきていない感じがすごい。台湾の現代文化の得体の知れなさの一つがここにある。
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かつては、壁際の大きめのモニターに延々とミュージックビデオが映し出されているカフェやバーがあったかもしれないが、今はもう見ない(スポーツバーに取って代わっているのだろう)。だから最近のミュージックビデオの役割は、宣伝か、マイナーな領域での自己表現か、(視聴者にとって)情報を探すためのタグのようなものか、そうしたところだろう。
1は、そうした中で、社会的影響を含めて、映像が力を持った例としてあげた。英語圏では1ヶ月近く「喪失感」が溢れていたと思うが、個人的にはその喪失感までが作者の作り出した作品であって、この映像はそのための小道具であり、十全に機能していたと思う。2から4は、知的に退廃しているような欧米の表現から選んだ。5を通過して、それ以降は、ヨーロッパアメリカの範囲をとび越えて出てきている問題や表現がほとんど。これらは面白い。
番外編
かつての相方ルー・リードが没し、一人でベルベット・アンダーグラウンド再演を取り仕切るなどしていたジョンケールの新作ミュージックビデオ。それまでのロックをやめ、ビート主体のヘビーなベースミュージックになっている。1942年生まれのケールは、1960年代からの現代音楽やロックを経て、齢70をすぎて、今ふたたび新しい音楽に挑戦している。ビートと歌をコーラスでつないでいるのだが、このコーラスの音程がジョンケールらしい。
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