噪集2019初日(続)

 では続きです。台北FENツアー初日、どうだったでしょうか。

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会場の中正堂。前を行くのは黃大旺(ダワン)さん

 まとめから先に書いておくと、このFENというユニットの、クセがありながらも創造的なパフォーマンスを十分に堪能できました。もしかしたら、日本ないし東京で見るよりも、非常にその闊達さが浮き彫りになって見ることができたかもしれません。

 

即興

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噪集2019初日、多くの人であふれた会場内

 彼らがやるのは、即興演奏です。即興演奏というと、思わずしかめ面をして自身の内面にむきあうような、ある意味で古風なところが想像されるかもしれません。が、個人的に理解したところでは、音楽の移り変わりとともに、即興演奏も常に変化しています。とりわけFENでは、従来の音楽的な意味では大友さんのギターや、あるいは古今東西の即興演奏を全てマスターしたのではというようなユエン・チーワイの演奏(ギターとエフェクターで様々な演奏を繰り広げます)がある一方で、ハンキルやヤンジュンはケージ以降、ないしはノイズや2000年代以降の音楽的潮流を汲んでいます。ハンキルは、もともと時計のゼンマイを100台ぐらい使ったメカニック/マシニックな異音やマイクに塩をふりかけたりする雑音など、ケージ流のノイズとも、あるいは00年代のいわゆる音響ともいっていい実験的な音楽で知られます。ヤンジュンにいたっては主要楽器が何かは不明で、拡声器でハーシュノイズや超音波を拡張する機材で知られますが、完全な徒手でのコンセプチュアルなパフォーマンスしている場合もあります。

 おまけに、彼らは、聞いたところでは、打ち合わせはしないのは勿論のこと、場所にあわせて演奏をしていくことでも知られます。ホールごとに配置を変えたりするのは無論ですが、以前はたしかスーパーマーケットの中で演奏を行うなど、文字通り場所を選びません。空間や環境にあわせて音楽を考え、つくっていくというのは2010年代に顕著になってきた問題系だと思いますが、そうしたところからも、いわば現代的な即興演奏の担い手であるといえるように思います。

 一言で言えば、彼らは、それぞれの地域ではひじょうな大物でありながら、実はかなりくせ者の集まりです。映画で言えば、エイゼンシュテインもいれば、チャップリンもいれば、バスターキートンもいる、という具合でしょうか。彼らがごっちゃになって、その場で映像を作っているところを想像してみれば、それはそれほど間違っていないのではないかとさえ思います。そこにはもちろん笑いも、不意打ちも、シリアスな美も、様々に入り混じっている、私たちは安直な美的感覚からあらためて遠ざかり、これらの現代的な美学にしたがって芸術や創造について考えをめぐらせてみるのもいいのかもしれません。

 

 という脱線は、まあ本筋ではないのでさておき。いずれにしても、この二日間のコンサートは、そうした彼らの営みが、いかんなく発揮された二日間であったように思います。簡単に振り返っておきます。

 

1日目

 1日目は、前回書いたように、会場にぐるりと奏者が配置されています。そしてなんとFENはここでは合奏せず、4隅にメンバーが位置しており、台湾のミュージシャンとデュオやカルテットなどを組みながら演奏を展開しました。

 さいしょは、大友さんと李俊陽です。李俊陽は伝統的な二胡をテンポの速い即興で進め、大友さんはむしろギターで、伝統的なダンスを想像させるリズムを形づくっていきます。後で何人かに聞いた感想ではもっとも好評だったこのデュオでは、伝統と現代入れ子のように反転しながら響きとリズムを生み出していました。

 ついでそのまま、ル・イ、ナイジェル、シーザー、チーワイのカルテット。ナイジェルの控えめながら時折暴走する低音の持続に、ル・イの真空管めいた器具で構成された装置の電子音が放電のような音で寄り添い、そこに二人のギターの高音フィードバックが空間を刺すように動いていきます。きわめて抽象度の高い電子音重視の即興演奏ですが、終盤シーザーが壊れたような旋律を演奏し始めて暗くも物悲しい光景に移ろっていきました。シーザーの旋律は非常にロック的な、長い拍を伴う重厚なメロディですが、貴重だと思います。

 ため息もつかの間、ボール紙で巨大な拡声器を模した道具でベティアップルが絶叫し始め、ツ・ニが高速の電子ビート、さらにハンキルがPCでのソフトシンセ(PC上でシンセサイザーを仮構したもの)を操ります。ベティアップルの身体的なざらつきと、何より違和感そのものを形にしたようなボイスはストレートに胸をえぐるところがあり、その横で光を装置で音に変換していくツ・ニの一種異様な光景は、どちらも女性というような固定観念をたやすく乗り越えて、音と光の力による現代メディア・パフォーマンスアートの世界に引きずり込まれます。ここで特異だったのはハンキルで、ソフトシンセは複雑な操作にもかかわらずほぼ全てピーとかピョロリーンとかドバッとかいう規格品の音であり、それが一層に予定調和を脱臼させながら、体感型のパフォーマンスを作り出していました。

 気づけば伝統音楽から遠いところまできていました。どれも即興です。とどめはヤンジュンとディノ、ジャレッドです。ノイズしかない。ノイズ・ミュージックは即興的に行う、という点で(非常階段)、きわめて正統的なノイズ・ミュージック。また、即興のことなる貌が垣間見られます。しかもほぼ全員が同じ楽器で、同じ方向を向いています。

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ディノ、ジャレッド、ヤンジュンのセット。なおパフォーマンス中は青い光が照らし、独特の印象で会場を彩った

 率直に言えば、最も感銘を受けたのは、この最後のものでした。この時、ディノはゆったりと始め、まずはエンジン音のような馬力のあるノイズはジャレッドから始まります。ノーインプット・ミキシングボードは、ミキサーの出力と入力を直接つなぎ、フィードバックさせる楽器ですが、彼らはほぼ完全に音をコントロールして可聴域外寸前の高音と低音まで展開していました。その間、ヤンジュンはというと、しばし、腕を伸ばしたまま、長くうつむいた姿勢で動かずにいました。無音の演奏というのがあるのも知っているので、それかな、とも思ったのですが、しばらくして何か決意したように小さくうなずくと手を動かし始めます。出たのはもちろんノイズ。ですが、エフェクターで微妙にうわずって変形された音は、ディノとジャレッドの繊細で高速な音から浮き上がって聞こえました。もちろんわかってやっているのでしょう、それから、ずっとその音で、かすかにいびつな形のまま、ヤンジュンは演奏を続けます。

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演奏終了後、机の脚から卓が外れた状態のヤンジュンのセット

 個人的にはあまり音楽を政治的に見るのは好みではないのですが、このときは、どこかそのようなことを感じずにはいられませんでした(僕自身は、政治については人並みに関心があると思っていますが、自分が政治的な人間であるとはあまり思っていません)。それは、このイベントの時期が、ちょうど香港をめぐり、北京をめぐる情勢が大きく報じられていた最中ということがあったからかもしれません。また台湾が、その政治力学のなかに巻き込まれていて、皆が深くそれに疲れ、あるいは傷ついていることも肌で感じられていたということもあるかもしれません。そのなかでこのヤンジュンとディノ、ジャレッドの演奏は、きわめて素朴ながら、北京と台北の音楽家が一緒に演奏している、ということの貴重さを、不意に思わせました。とくにしばらく動かなかったヤンジュンの「さあ、やるか」というような小さな頷きは(それが単に音楽的なスイッチだったのか、より別の文脈だったのかはわかりませんが)国境を越えて演奏することの貴重さと困難というべきものを不意に感じさせたのです。こうしたことを貴重と思う時代に今いるのだ、という感触であったと言いかえるべきかもしれません。いずれにせよ、いわゆる政治的な感覚に襲われ、あらためてこの企画とFENというユニットの性格について思いをめぐらせました。

 

 そのいびつなノイズはそのまま続き、演奏はゆっくりと終わりました。最後はヤンジュンが、(ノイズ・ミュージックの定番を模したのでしょうけど)機材のある机を前後に揺らし、机ごと倒して終わり。ノイズの正統的な終わり方で、ディノとジャレッドも素晴らしく、感動しました。

 このように、全体としてはFEN各メンバーの即興のアプローチが見られるとともに、台湾の、とくに新世代のアーティスト達が負けず劣らず独自の世界を繰り広げ、その相互の影響で表現が大きく広がっていった充実した時間だったと思います。構成も、ある種の伝統性からゆるやかに展開してノイズまで、台湾の底の深さを見せつけられた一夜でした。

 

(つづく)

 

 

 

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