噪集2019二日目

では二日め。この日は、かなり変わった試みが行われて、内容も非常に面白く充実していました。

大きく言うと、映像と、伝統楽器との共演です。映像は許家維(シュ・チャーウェイ)、音響に胡定一(ハン・チュンリ)、二胡と笛に黃俊利(フー・ディンイ)。ディンイは85年生まれの、まだ若い伝統楽器奏者です。そうした試みはこれまで様々にありますが、だいぶ独特のアプローチが成立したように思いました。

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噪集二日目。前日とはうってかわって、白い照明が硬質な印象を与えました

 

森・剣・カンフー 見える音・見えない映像

簡単にまとめておきましょう。最初は、照明が落ちて、映像のスクリーニングから始まります。台湾の古来の仮面をかぶった人たちが街を練り歩き、森の中を通り、池の上で舞う、という、幻想的な映像でした。映像はとても現代的で、ベルトリッチやゴダールを思わせるショットが続き、森の湖畔で太鼓とともに舞う光景は思わずゴダールの「ウィークエンド」を思い起こしました。音響もかなり大きく、環境音にフォーカスされた不穏な流れで、力強く引き込まれます。許家維の映像作品でしょう。

そして暗転から照明が点くと、4隅にFENメンバーが座しているばかりでなく、中央に、突如、見知らぬおじいさんが立っています。手元に机、足元には布切れや多数の小物が並んだりぶら下がったり。この人物は、ハン・チュンリという、映画の音響係、というか、小物を使って効果音を作成する音の匠でした。

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前日にもまして盛況。中央の灯の下にハン・チュンリがクンフー?をしています

まず、まな板の上でコップを逆さに持ってリズミカルに叩きます。パカラッパカラッと、馬のひずめでしょうか。そして布をはたくと、人物の動きや風の音が生まれます。さらに包丁を二本、鋭く交差させるや剣戟の光景が果てしなく繰り広げられていきます。

これは奇妙な体験でした。先ほどまで映像を見ていたわけですが、今や映像はなく、音だけで、しかし映像と物語が喚起されます。おそらく観客の大半が、それぞれの映像を浮かべながらそれを見ていたに違いありません。

そこにFENが切り込みます。大友さんはノイジーな即興という風情で弦をかき鳴らし、存在しない映像のサウンドトラックをつけていきます。チーワイはミキサーではじけるような低音のノイズを、ヤンジュンはエフェクターでズタズタにされたハーシュノイズ(いわゆるグリッチノイズ)を不規則に始めました。ハンキルは時折、急にコンピュータが作動したような機械電子音で異化を進めます。

果たして、何が起きたのか、視界には気のせいかカンフーのアクションがちらつき、馬と剣と拳法の達人が交錯するアクションが繰り広げられていました(後で聞いたら、その場にいたlolololのシャもそうだと言っていました)。ハンが、自分の拳と拳を合わせている場面もありました。とどめにものすごかったのは、小物の中から大きな瓜のような果物を取り出し、まな板に乗せて包丁で一刀両断した時です。ズバッと皮と実が切れ、果肉がとび散ります。まちがいなく想像上の視界では誰かが傷を受けました。さらに何度も包丁が叩きつけられ、果物は薄切りになっていきます。即興演奏で果物を切るというのは初めて見ました。というか、一体何を「見て」いるのでしょうか。

展開は、ふたたび馬のギャロップがはじまって、そのあたりから収束していきました。時折、まだなお剣と剣はぶつかっています。FENはゆっくりフィードバックノイズに移行し、さいご、ハンが空中にもちあげた果実に包丁を叩き込んでめり込んだ状態で終わりを迎えました。

視覚と聴覚、音像と映像、音響と環境音など、多様な要素が交錯した演出で、驚きの企画でした。演奏は物語を支え、アクションを付け加えるような力となって、観客にあるイメージを作り出していました。近年では、音楽の問題として、実際の環境音を用いた(フィールドレコーディングやミュージックコンクレートなど)ものも一般的に注目されつつありますが、ここではそれが逆転するように、小物で環境音を作り出すという、またそれが実際に映像や物語を喚起するという結果を見せ、その点でも、非常に興味ふかく刺激的な企画だったと思います。

 

 

暗転

さて、しばし呆けていると、再び暗転して、映像の上映がまた始まりました。今度は古民家で老人が盤と駒を動かしているところで、突然それがCG加工であることがブルーバックで明示され、実際のごく断片的なセットがある孤島の映像が映ると、そのままゆっくりとカメラが引いて、島全体の姿が見えてくる、という映像でした。カラフルな持ち味とじっくりした持続の感覚、どこかタルコフスキーの「ソラリス」エンドシーンを想起する刺激的な映像だったと思います。

 

伝統・ノイズ・アンサンブル

照明がつくと、今は別の人が中央にいます。手には二胡、そばには笛と拍子木。椅子にわずかに浅く腰掛け背筋の伸びた姿勢は、一見して伝統楽器の正統な奏者であることをうかがわせます。実際、フー・ディンイは、本職がその台湾伝統の楽器の演奏で知られる、若い演奏家でした。

そして4隅にFENが構えています。つまりここ台湾で、伝統楽器と即興演奏の共演が行われるというわけです。

そのあとの展開は、とても緊張感のある充実したものでした。一般に伝統楽器と即興演奏家の共演の場合、楽器奏者がアドリブを行うか、即興演奏家がある種のパーカッションのように不規則に入り込むか、その辺りが良く見受けられるものと思います。場合によっては、楽器奏者がロックや印象音楽風の和音を弾いて、皆で合わせる、という展開もあるでしょう。

 

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ますます盛況です。周りには去年のAMFで見かけたマネージメントの方々も見えました

ここでは、そうした展開はありませんでした。実際、ディンイは、おおむね自身の本来的に身につけた楽器の演奏を繰り広げていたと思います。それに対して、即興演奏家は、まずフリーインプロビゼーションの手法から入りました。デレク・ベイリーが提唱したノン・イディオマティック・インプロビゼーションは、語法としてはウェーベルン電子音楽化と断片化を軸に、調性もテンポもない演奏として出発したと思いますが、まさにそうしたギター演奏から始まった、と言ってよいでしょう。大友さんは、まさしく現代音楽風の崩れた和声を爪弾き、そこにチーワイが低音中心のクラスターや持続音を作ります。進行感のない、音の圧だけが舞うような中に、ヤンジュンはハーシュノイズで、ハンキルは穏やかな機械音で寄り添います。そこから次第に全員が前へ進みはじめ、ディンイが楽器を持ち替えたあたりから全員のテンポが上がり始めました。定常クリックを持たない即興演奏は、そのまま急速に音の密度をあげていきます。それはまるで、ホール全体の空間にノイズの渦が巻きはじめていくようでした。

興味深かったのは、次の瞬間でした。ディンイが、どこか苦しそうに、拍子木に手を持ち替え、パンパパンパン、というようなフレーズのあるリズムを打ったのです。あえて言えば、即興の加速のなかで伝統楽器奏者の手元はよろめいて、リズムフィギュアもテンポも乱れながらの一打のようでした。そのとき、しかし、それを確かに目で捉え、音で聞いた即興演奏家たちが、急に、演奏はそのままに、自らの突き進むスタイルから、音のテクスチャーだけを維持していく形にスライドさせたのです。すぐに持ち直した拍子木の確たるリズムに、重低音から電子雑音までの音の層がうごめきながら覆っていきます。

会場の大きなホールの4隅で、それぞれのスピーカーから出た即興演奏家の音が、バランスを保ちながら崩れることのないアンサンブルを構築したとき、まるで一つの音楽が完成したかのようでした。かつてもこうしたアンサンブルを見たことはありますが、これほどの完成度で、それもFENで、しかも台北で、その達成を見ることになるとは、思いもよらない出来事でした。その後も、全員が、あと一歩ふみ出せば無軌道なノイズに転化してしまうという、その寸前をキープしたまま、演奏が続き、終了しました。おそらく演奏している全員がそれぞれに負荷を感じながら、互いの音を聞きあい、さらには目も凝らしながら、作り上げたものだったと思います。しかしそれは、緊張感のある、充実した音楽の形態を生み出していたように思います。

 

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終演後。ここはかなり独特の雰囲気ですが、二日間で全く違った景色を見せました

終わったあと、演者全員に、素晴らしかったと伝えたくなり、サムズアップをしていき、大友さんにもそう伝えると「たぶん彼はこういうのが初めてで、みんな必死に合わせたかも。ハンキルさえ合わせてたかも」と笑いながら言っていました。

というわけで、第二夜でした。感想としては二つに分かれてしまって、まとめがしにくいですが、通常のものではない、ある種の異様な音楽の形態をみることになった(それも一気に二つ)わけでした。台北の暑い夜、成熟して洗練されながらも、うちに野性味を保持する(また保持しようとするような)伝統と即興が、それぞれに一つの形をとった日だったと思います。

 

 

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