ノイズだらけの海を歩こう:2020年3月から7月の音楽の話(③)

 

 

ノイズとはなにか、という問いは、常に面白い。なぜなら、答えはいくつもあるのに、どれが正しい正解であるのかはわからないという類の問いだからだ。

これは、とりあえず辞書を引いてみればわかる。まず出てくるのは音の事柄(雑音)であるが、続けて多領域にわたってその単語が使われていることがわかってくる。たとえば機械工学では、動作を妨げる余計な電気信号のことである。また社会科学系の領野では、人の行動を何らかの形で妨害する阻害要因のことを指す。天文学上の観測では、データ採取においてまぎれこむ余計な電波のことだ。

さらに、かならずしも悪い意味としてだけではないこともわかる。統計学の分野でホワイトノイズとは、ある持続性(定常性)をもつ(乱数による)バラツキのある状態のことを指す、分析概念である。また、生物学においてノイズとは、遺伝子発現のことを指し、むしろ生命の発達や進歩・進化や多様性の出現において欠かすことのできない重要なものとして、高く位置づけられている。そしてこの全てが「ノイズ」という言葉の指す意味でありうるのだ。

 

いやいや、そんなことを言って。まず何よりも「雑音」のことなのだから、それでいいじゃないか、というかもしれない。耳ざわりでうるさい音がノイズなんだよ。

ところが、ここでは問題が一つある。それは、雑音を「気持ちよく」聴いてしまうこともあるということだ。例えば、ジミ・ヘンドリックス。あのフィードバックまみれのギターのブルージーなノイズは多くの聴衆を興奮させ、レコードや記録映像で見聞きしても、ちょっとした快楽を味わわせてくれる。むしろ逆に、とても綺麗で可愛らしいピアノ曲だって、「うるさく」感じられることは皆、知っているはずだ。部屋でのんびりくつろいでいる時に、近所の窓からモーツアルトピアノ曲を何度も何度も繰り返し大音量で練習しているところが聞こえてきたら、いい加減ちょっとうるさいなあ、と思ってしまうことは、誰にでもあるだろう。ここでは、突然ノイズの概念が牙をむいて、つまりは、あなたが「うるさくない」「きれいだ」と思っているものも、実は耳ざわりでうるさいノイズなんですよ、と言い始めてくる。ノイズは領域拡大して、音楽すべてを呑み込んでしまうのだ。

いやいや、この世の中には「ノイズ・ミュージック」なるものがあって、その歴史的定義はできるだろう、という意見もあるだろう。ところがここでは、歴史的な定義というのは常に抜け穴があって、全てをすくい取ったと思うと、あちこちから別のものが出現する。

例えば、ノイズは未来派ルイージ・ロッソロが提唱した騒音芸術に端を発し、最初の楽器はイントナルモーリ、ロックの電子楽器を経て、1970−80年代に世界各地でホワイトハウスやスロッピング・グリッスルなどを代表に花開いた、パフォーマンスと電子装置を用いた音楽ジャンルなんだ、ということはできる。ただ、そうすると今度は大音量のシンセを使った音楽はどうなるのか、現代音楽はどうなるのか、自作楽器を使う民族音楽はどうなのか、といった問いがたちまち広がるだろう。

こうした話をしている時のオチはたいてい決まっていて、「音楽をジャンルで定義することほどバカバカしいものはない」ということになる。おそらくそれは正解なのだろうけど、けっきょく「ノイズ」は、いくつもの答えがありながらも、どれが正解なのかわからないままになってしまうというわけだ。

 

こうした「ノイズ」の広がりかた、答えが沢山あるけれど、どれも正解であるようなところに、個人的には惹かれている。もちろん聴覚を刺激する音も大好きだけれど、それだけでなく、ノイズと一言くちばしると、あっというまにいくつものジャンルや領域をまたいでいくことができるのだ。しかも、上にあげた生物学的な定義などは、議論をするさいになかなか面白い視角を与えてくれる。もしかしたら私たちはノイズなしには生きていけないかもしれないのだ。

いくつかの国と地域を横断する中で、いろいろな領域の人と会ったり議論をしてきたりした。その結果、例えば台北では、(美術)作家で、かつ著述家としての扱いをうけ、ドイツでは、作曲家でサウンド・アーティストと呼ばれてきた。けれど自己紹介するときは一貫して、自分はノイズ・ミュージシャンだ、といってきたのは、こうした《ノイズ》という言葉の融通無碍(むげ)であるところ、いくつかの領域をさっとまたげるところで、しかも、言語も国や問わずにそうした議論ができるということもあった。

 

こうした「ノイズ」の中で、最近とりわけ面白く感じられるのは、雑音の問題、とくに録音における雑音の問題だ。ある音楽が録音される、たぶん何かが演奏されているのだろう。けれどそこに「ノイズ」が混じっている。それをどのように扱うかということだ。

例えば、人の声。うっかり録音スタッフの合図が混じってしまったり、演奏者たちの声や息が混じってしまうかもしれない。それに、ライブの場合は観衆や聴衆たちの声。ちょっとしたかけ声や、興奮してしまった観客の絶叫とか、ゆったりした会場で会話していた観客の笑い声や、グラスを落として割ってしまった音なども入る。

それに、自然の環境の音もある。空調の音や、近くを電車や地下鉄が走っていればその轟音、車のクラクション、途中から入ってきた観客が開けた扉の向こうからの風の音、雨の音、雷、木のざわめき、虫や鳥のさえずりなど。案外と自然の環境の音は、録音に紛れてはいってくる。

これらはきっとノイズと呼ばれるだろう。そして、綺麗にパッケージされた音楽の場合、それらは丁寧に除去されるたぐいのものだ。だとすれば、ノイズ好きとしてはそれらは見逃せない。とくに、この中の最後のものが極めて興味深かった。つまり環境の音、環境のだすノイズである。

 

実験音楽や、現代音楽において、ここ10年で、最も多くの議論と進展が見られているものの一つは、間違いなくこうした環境音を用いた作曲であろうと思われる。その名称は様々で、「ファウンドサウンド(found sound)」と呼ばれることもあれば、「フィールド・レコーディング」や「サウンド・スケープ」と呼ばれることもある。さかのぼれば1950−60年代の現代音楽に確たる起源が見られ、鉄道などの走行音を録音・編集して楽曲として仕上げた具体音楽のピエール・シェフェールや、オーケストラに環境録音を混ぜ込んだヴァレーズ、様々な自然の音をテクストに沿って配置し、朗読なども合わせたケージ、物語に沿って環境音だけで構成したリュック・フェラーリの「ほとんど何もない」にまでたどり着く。60年代末にはカナダの作曲家レイモンド・マリー・シェーファー(R. M. Schafer)が「サウンド・スケープ(sound scape)」の概念を提出し、都市やその周辺地域の環境全体を、録音と編集によって再構成するという、巨大な創作の作業として開発がなされた。同じくカナダのヒルデガルド・ウェスターカンプ(Hildegard Westerkamp)はそれをさらに発展させ、「サウンド・ウォーク」として、ある地域を実際に歩きながら音を採集したり、ドラマチックな環境の展開として経路を「作曲」するなど、地理空間上の主体的経験を与えうるものとして環境音にもとづく創作を行っている。

こうした、ある地域の音をめぐる議論は、さらに2000年代から2010年代にかけて、より急速に進んだ。スティーブン・フェルド(S. Feld)らによる、その地域の音をめぐる営みの総体を文化的に検討する「アコーステモロジー(acoustemology)」が、いわゆる文化研究の一環としてカルチュラル・スタディーズのコースで行われ、多数の学術論文が執筆されている。またそれに伴う実作として、サウンド・アートの領域においても録音した環境音や、あるいは野外のインスタレーションで積極的な自然の音を利用する試みが見られており、これらは洋の東西を問わず、世界中で進んでいる。

また、並行して録音技術の側からのアプローチもあり、水中でにごりなく録音できるマイク(ハイドロフォン)の制作や、各種センサーなどの取り組みも行われているし、BBCの録音技術者であったクリス・ワトソン(Chris Watson)らは虎やゾウなどの接近の困難な動物たちの鳴き声を、そうした精緻な機材で録音する試みを作品として提出している。

 

創作面でも、こうした動向と並行して、多くの環境音を用いた作品が作られた。特に現代音楽との境界領域である即興や実験音楽の分野では、野外演奏の様子を、流れ込んでくる自然の音を除外せずにそのまま録音するものも見られたし、そうした自然の音との「即興」を行う人たちも見られた。

一方、現代音楽の領域では、録音や加工なども多く見られている。とりわけ注目されるのはアメリカの作曲家マイケル・ピサロ(Michael Pisaro)で、積極的に自然環境音を音像として楽曲に取り込んだ。なだらかなピアノに各種の環境音をコラージュした作品や、毎日10分間、都市の同じ場所での環境録音を積み重ねたばかりの「透明な都市(トランスペアレント・シティ)」、繊細なギター曲を、演奏した場所の録音をコラージュして音のドキュメントとして作り上げた曲など、コンセプチュアルな面から叙情的な音風景まで、多様な試みを繰り広げた。

これらでは、自然環境の音はもはや単なるノイズとしてではなく、拾い上げられ、聞き届けられるべき音の要素の一つとなっている。今や、音の世界はそうした広大な環境にまで広がっているのだ。

 

 

さて、と、ここでも再び考える機会があった。コロナ禍でのドイツ現代音楽グループとの交流の中で、こうした作品を一つ作ってみようというアイデアがあった。環境音を含むいくつか音を持ち寄って、一つの作品をつくる、という試みである。そうして作ったのが『Tele-Vision』という映像作品だった。

 

ここでは、幾つかのことが考えられている。ひとつには、コロナ禍の状況のなかで、たやすくは録音すべき場所まで行けないということだった。多少は遠くへ出かけてもいいかもしれないが、適切な場所を求めて各地を散策したり、山や海へと繰り出すのは、やや憚られた。環境音を録音しようというのに、環境にまで行くことができないのだ。これは日本だけなく、ドイツもまた、強力なロックダウンのために同様に困難で、せいぜい近所を散歩する程度のことしかできない。

これについては、インターネットの中に答えを求めた。より正確には、インターネットの中に置かれている自然環境から、その音を取り出して再構成したのだ。

これは、前回にふれたマイケル・ウルフの作品にヒントを得ている。ウルフの作品は①ストリートビューの中にある事故や動物たちを取り出し、②その画面をカメラで撮影して、自身の作品とした。つまり、インターネット内部に保存されている自然・都市環境をひとつの「環境」として見出し、さらにそれに何らかの加工をすることで作品としたわけだ。

ここでは、それに習って、インターネット内のあちこちに散らばっている自然環境を採集した。まずYouTubeの中にある観光の際の景色などを探して、それをスマホのカメラで撮影し、さらにスピードや色調などを操作して、独自の形に作り変えた。環境音についても、そうした音を再録音するか、もしくはサウンド・エフェクトのアーカイブとしてあちこちに公開されている録音を取り出し、やはり変形操作を加えて、別の形に作り直す。いわば、ネット内の情報をそのまま「環境」とみなして、そこからサウンドスケープを再構成していったわけだ。

 

テーマは、海とした。インターネットの中にある環境としては、実際には都市の風景がたくさんあったが、以前の「Tele-Path」の空と同じで、世界中をめぐり一つにつないでいるものとしての海が、まず思い浮かんだ。そのために地中海やアフリカ、アジアの海の録音を集め、映像もそこを歩く人たちのアーカイブを撮影している。

もう一つ、完成間近になって付け加えたのは、足音だった。コラボするドンゾーさんからは、コラージュした波の音やカモメの音、電子空間であることを示す電子音や低周波などに合わせて、それに反応するようなヴァイオリンの演奏が送られてきた。それらをさらにコラージュしながら、こうした(ほとんどフィクショナルな、コラージュだらけの)風景に、さらにそこを行く人の音を足そうと思った。それは、どこまでもいっても海しかないような情報の世界を歩く人の姿でもあるし、ベケットやバラードが描いた危機的終末を歩くことで過ごす人の姿でもあるかもしれない。何より、通常のフィールド・レコーディングでは排除されてしまう足音を、わざと意図的に付け加えてみようと思った。いわば、それはノイズだからだ。情報の海の中に、ノイズとしての人の歩みの軌跡を描いてみる。

それに幾つかの文字を追加して、そうして「Tele-Vision」は完成した。

 

 

 

2020年の秋と冬

ひと夏がすぎた。3月にネット経由の即興をしていたグループからは、独立した企画として、アルス・エレクトロニカ音楽祭で、映像と音の集団即興のパフォーマンスが行われた。3月には雑な図形楽譜と指示だけだったものが、ここでは動くグラフィック・スコアと、声や身振りまでを交えたインタラクティブなページェントのようになっていた。

最初につくった「Tele-Path」は、当初に構想していた爆音の高周波ノイズを復元した新バージョンを作成し、それは音楽雑誌「Wire」のミックス・リストに取り上げられた。

それらに比べると、どちらかといえば2010年代の問題への宿題のような性格をもつ「Tele-Vision」は、その創作過程からの議論を進め、秋から冬にかけて、環境音を中心としたサウンドスタディーズのセミナーでの討議へと発展していった。

そのそれぞれが、小さな成果だが、ささやかながら楽しい結末を見ることになった。その議論はまだ続いている。

 

これらはふりかえれば、インターネットの世界に、はじめて正面から向き合うことになった一つの過程なのだと思う。そこには、大きな不自由と、新たな世界と、開発中の方法論と、そこを行き交う人の営為があって、そうした落差や齟齬や距離や感触に付き合うことでもあった。

もちろん、新しい芸術家も出てきている。とりわけ冬から春にかけては、ネット上でのコミュニケーションを介して、コンピューター上でリアルタイムの曲生成をおこなうライブ・コーディングのパフォーマンスが登場し、ゆっくりとではあるが幾つかのフェスティバルで演奏を開始した。ネット内のレイテンシーやフィードバックなどを飛び越えて相互交流しながらパフォーマンスを行うその様子はいたく刺激的なものだ。そうした新しい方法も、また生まれてくるだろう。

コロナ禍で、日常は止まり、世界はひどく小さくなったようだった。そこに現れた天使都市が暴走したかのような、極端なネット交流の増加と、それに反するような医療の問題は今も世界中で起きている。残念ながら私たちは今もまだ天使ではなく、天使のなりそこないとして情報と現実の両方をさまよいながら、あてどもなくその中を歩き続けている。そうした解決されない、答えのないノイズのようなこの世界の足音を聴き取り、あるいは新たに生成する試みは、まだ当分のあいだは必要とされるだろう。ノイズなしに私たちは生きていくことができないかもしれないのだから。