影たちの即興 - カルテッツ・オンライン

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大友良英さんとYCAMで共同制作された「quartets online」を聴いています。現在、インターネット上で公開中。大友さんと7人の音楽家が、ネット内で即興演奏を繰り広げているところです。

それで、これは一年間つづくということで、感想というのはまた書くかもしれませんが、とりあえず思ったことなどを。

 

まず、これを見ていると、即興演奏について考えてしまいます。正確には「即興演奏」「コンピュータ」「インターネット」というあたりのキーワードでしょうか。幸か不幸か、そうしたことに関心があるので、少し振り返ってみたいと思います。

即興演奏というのは、ずばりですね。自由に演奏する。もうちょっというと、即興演奏自体は古くからありますが、それを積極的に取り出した1960年代以降の「即興演奏」の流れでしょうか。

イギリスのデレク・ベイリーが、既存の音楽的な語彙や文法によらない、ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションをはじめて。それから80年代にはニューヨークのジョン・ゾーンが、様々な音楽の要素をコラージュするように、多様なジャンルの音楽家とコラボレーションした「ポスト・モダン」とも呼ばれるもの。

さらに、90年代から2000年代にかけて、東京で、音のテクスチャーや音量などに焦点をあてて繰り広げた、いわゆる「音響」。大友さんも、バンドのグラウンド・ゼロではポストモダンなコラージュを試みていますし、それから90年代後半からはサイン波で演奏するSachiko Mとのユニット、フィラメントや「カソード」などの作曲作品でこれらの流れに名を連ねています(し、また世界的にも活躍しています)。

 

と、2000年代まで来たところで思い出すのが、次のキーワードのコンピュータです。今ふりかえると、もしかして「音響」にも大きな影響を与えたのかもしれませんが、この時期にはコンピュータが音楽に入ってきて、即興にも登場しています。95年にはウィンドウズ95が出て、インターネットが一般的になり、さらに2000年代にはラップトップの薄型pcも出てきて。

様々なアドリブやテクニックが競われる即興演奏で、一台の薄い金属板をポチポチするだけで、豪華な電子音が出てきたり。またプログラミングで、ランダムな音の出現が可能になったりと、大きな変化と位置づけられるでしょう。

とくに、デレク・ベイリーの考え方に沿っていけば「既存の音楽の文法に従わない」という点で、ランダムな音の出現を可能にするコンピュータは、理論的にも即興の延長(ないし乗り越え?)のように思われます。この辺りは、『即興の解体』という本で、著者が詳しくこだわって論じていますね。

 

そこで話を戻すと、大友さんは、2005年あたりから、そうしたコンピュータ制御による作品を作り出していました。正確には、美術作品ですね。サウンド・アートというか。様々な美術作家やエンジニアの人たちと協働して、サウンド・アートもしくはメディア・アートのようなものを作っています。

例えば、「ウィズアウト・レコーズ」という、小さいレコードプレーヤーをたくさん使って。題名のとおりレコードなしで、針が台をじかに打ったり、モーターの回転音がしたり。あとスピーカーがフィードバックノイズを出したりする作品が、そうだと思います。これはコンピュータ制御で、ランダムに、その場で音を出して「音楽」を作っていく。その場に大友さんはおらず、展示作品ですが、しかし即興演奏とおなじような原理で音が作られていくというものだったと思います。

こうした作品は、さらに2008年から2010年まで、「アンサンブルズ」という連続展示に展開して行って、いろいろな美術家たちとの協働で、YCAM水戸芸術館、あと東京では現在3331になっている場所の屋上で、展示が繰り広げられました。個人的にはその東京での09年の展示について、あれは屋上の野外で展示があったので、刻々と変化する都市環境音との創発的な即興アンサンブルとして、以前に考えたこともあります。

 

そして、この「quartets」という作品は、もともとは、その一連の中の、08年にYCAMで行われた「アンサンブルズ」で制作されたものですね。とはいえ、ネットではなく、実際の展示作品としてで、同じものは、のちに新宿のiccで展示されたときに見たことがあります。

参加している音楽家は、当時の音響で世界的に活躍していた人ばかり。演奏も、折々に隙間があって、音は音程のあるものにかぎらずテクスチャーによっているものも多いですね。トランペットを吹く息の音、金属の擦過音、アナログシンセの断片的な電子音、サイン波、ターンテーブルを叩く音、フィードバックノイズ、ときおり、ギターや歌声がかすかな旋律をかなで、その間を行き来するように笙の和音が、豊かな音塊として通り過ぎていきます。

一方で、この作品は、先ほど見たメディア・アートというかコンピュータを用いた即興作品でもあって。展示では、白いキューブに、演奏者の影が映され、それに合わせて演奏する音が流れました。ここでの眼目は、つまり組み合わせというか、すでに一度それぞれ録音・録画したパーツを使って、しかしそれらが間欠的な演奏をしているため、相互に組み合わさることで、新しいメロディや音楽となって立ち現れてくるところだと思います。もちろんそれぞれも即興演奏の録音・録画ですが、それらをランダムに組み合わせていくことで、その全体が、新しい即興演奏として展開していく。「アンサンブルズ」の名の通り、コンピュータによって出現する即興アンサンブルであるというところではないでしょうか。

 

 

少し、振り返ってしまいました。こうして振り返ってみると、すでに元の展示の08年の時点で、即興演奏の原理においてはいくつか革新的なことを含んでいたことがわかります。とりわけコンピュータで制御された、その場に人はおらず、個々のランダムな再生で全体が新しいアンサンブルとして生成されてくること。また、スタイルとして、テクスチャーを重視した演奏(これは、和声進行によるインタープレイを基礎としたアドリブよりも、方法論的にランダムな即興アンサンブルを作りやすいという特徴もあると思われます)。とはいえ、一方で各人はそれぞれ個性的であって、実際に聞いてみればノイジーであったり、スピード感があったり、繊細な歌声やギターの響きなど、多様で雑多な性格をもつ音楽としても立ち上がってきます。こうしたものが、一つに集約された作品だと、言ってもいいように思います。

 

では、いま見ている、この2020年版の「カルテッツ」とは、何がちがうのでしょうか。一番大きいのが、もう一つのキーワード(ようやく出てきました)インターネットだと思います。この作品は、いま、インターネット内で生成されて、それがリアルタイムで目の前のモニタに映し出されている。生の即興アンサンブルなわけです。

もう少し言うと、元の展示と大きく違うのは、08年版は、作品が「空間」によっていました。つまり白いキューブがあって、その各面に影が映し出され、それにしたがって各所のスピーカーから音が流れていた。全体のアンサンブルは、そうやって出てきた音が展示空間内で一つにまじわって、巨大なアンサンブル(カルテット)を構築していたわけです(ちなみに、影も等身大の大きさがあり。さらに向かいの壁面には別の美術作家の映像と音声があって、それともコラボレーションしていた記憶があります)。そうやって、空間の中で、実際に音が出て、それが一つのものとして響いていたわけです。

その空間性は、いいかえれば、ある種の身体性と言ってもいいかもしれないです。実際に、展示室内に入った時は、左右から鳴るサイン波が耳を通過しましたし、ノイズは轟音として、笙の和音は空間全体を包むように響きました。文字どおり、振動が体を揺らしているのが分かると言ってもいいかもしれません。

そこから、2020年の版では、インターネットの中へと、モニタの奥へと姿を変え、その場所で音を鳴らしています。物質性や身体性は姿を消し、重力のない、本当の影のようになって、なおも即興のアンサンブルを奏でています。というよりも、それは本当に影であるというか、実際に演奏者たちのある時間の痕跡であり、シルエットとしての影であり、そして肉体性をなくした姿としての影でもあるーこうした点で、もともと影をつかった作品である本作品は、こうやって(ネットの中で身体性をなくすことで)ようやく本来の姿をあらわしたようにも思われます。

 

 

さて、ここまでで、ようやくこの作品にたどり着いたばかりです。このインターネットの即興演奏、影たちのアンサンブルは、では、どのような作品と音楽を作っているのか。そうしたことも考えてみてもいいかもしれません。

たとえば、もしかすればこうしたモニタにのみ現れてくる身体性と集団即興の姿は、いま現在の状況—つまりコロナで自粛をするなかに広がるリモートの状況、そこで私たちはモニタ上にしか存在できず、そこでコミュニケーションを図っています—におけるリアリティを、あらためて差し出しているようにも見えますが、それについては、もう少し先まで音楽を聴いてみて、考えてみることにしたいと思います。

 

 

 

[quartets online]  http://special.ycam.jp/quartets/

 

参考

佐々木敦『即興の解体/懐胎―演奏と演劇のアポリア青土社、2011年