ネット上の、一つの場所 《カルテッツ・オンライン》(その2)

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《カルテッツ・オンライン》については、少し前に、簡単な感想を書いてみました。今回はその続きです。

それで、久しぶりにそのページを開いてみたのですが、実は演奏しているところから、下にスライドできるんですね。そうすると、いろいろな情報と、あたらしいオンライン版にするための対談などが載っていることに(ようやく)気がつきました。それで、そこを読んでみて、再度の感想です。

 

で、その対談などを見ていると、前回の感想の答えあわせをしているような気持ちで読んでしまったわけですが、おおむね間違っていなかったことがわかって安堵するとともに、新しくわかったことで面白かったことも、いくつかありました。

例えば、このオンライン版が、コロナの状況(あるいは自粛やリモートの状況)の中で、やってもいいものとして考えられたこと。また、オンライン版にするにあたって、元の展示からいくつか工夫をしていて。たとえばパーツを2分程度に切ったり、フェードインして個々のパーツが登場すること、などのことが言われています。

前回も書いたように、美術館のバージョンでは爆音で長尺のノイズが展開したシーンもあったように思われ、そのあたりの違いがわかって面白かったですし、またパソコンなどの小さい画面で見るときに、今のバージョンで有効に機能しているという感じも、改めて受けました。とりわけ後者は、なんとなく画面を見ていると1時間程度は無理なく見ることができる(別タブを開いている場合もありますが、それも含めて)ところがあって、それはこうした理由によっているのかと、納得したところです。

 

あと、最後の方で、この作品のアルゴリズムについての説明がされていて、それも興味深かったです。仕組みとしては、一人の演奏が終わると、ランダムに次のパーツを選択していく、その組み合わせの集積として全体がふるまう、というわけですね。以前に、アンサンブルズ展については〈創発〉という、個々のパーツの動きが予測できない全体の組織を作り出していくという概念から見たことがありますが、まさしくそのように作られていることがわかり、興味深かったです。

くわえて、最後にAIとの比較もされていて。いわゆる機械学習で仮想人格を作り上げていくAIに対して、ここでは組み合わせで即興そのものを創出しているということが強調されており、やはり「アルゴリズム的即興」と呼ぶべき独自のものが作品として成立していることを実感しました。(こうした点については、もし「感想その3」があれば、書いてみようと思っています)

 

 

ところで、そうした、「インターネット」を前提にした、アルゴリズム的な即興ということをフムフムと思いながら見ていたら、すこし別の角度での事柄についても考えてみました。それは、ある種の即興の問題ですね。

どういうことかというと、唐突ですが、インターネットの特徴として、しばしば「セレンディピティ」と「フィルターバブル」ということが言われます。この二つは対の概念で、単純化するとセレンディピティは「不意に思わず良い出会いがあること」「偶然に予想外のものを発見すること」を意味します。「フィルターバブル」はその逆で、インターネットのブラウザなどが利用者の見たいものを選択し、また見たくないものをフィルターで遮断していくことで、結果として、フィルターの層が泡のように情報を隠し、「見たいもの」だけが前面に出てくることを指します。繰り返しですが、この二つは対の概念で、インターネットの(その中の利用者の)特徴を、よく示しているように思います。いいかえると、インターネットには偶然の予期しない出会いの機会に溢れていますが、同時に、そこに生きる利用者は出会いを制限している、ということであろうと思います。

 

どうして、この問題が即興にかかわってくるかというと、即興演奏の一つの醍醐味は、「予期せぬ出会い」というか、世界中にいる(ジャンルを問わない)誰とでも、その場で一緒に即興演奏ができる、ということにあると思います。思います、というか、そのように言われますし、実際に洋の東西を問わず、様々なジャンルや背景をもつミュージシャン同士が共演することは、たいへんに刺激的です。

 

で、その問題を、インターネットの中に移動させてみると、どうなるでしょう。

実は、インターネットの中に入ると、「予期せぬ出会い」はいくらでも可能性が開いています(セレンディピティ)。いくつものSNSなどで、次々に見知らぬこと、見知らぬ人に出会うという体験は、誰でもすることができます。

一方で、しかしインターネットで活動する場合は、極端なまでの関係性の狭隘を体験することにもなります。フィルターバブルの結果、見たい人、好きな人としか関係しないことになり、場合によっては自分の聞きたい声だけが場に溢れていく(エコーチェンバー現象)に追い込まれていくことでしょう。おそらくこれから、インターネットでの交流や、場合によったらそこを拠点にする音楽やアートの活動も(これまで以上に普通のこととして)たくさん出てくると思われますが、まずもってこの二つの問題に遭遇することが予想されます。

 

 

さて、こうしたことを踏まえつつ、あるいはぼんやり考えつつ、カルテッツオンラインの画面を見ていました。そこで面白いなと思ったのは、そこにある白い空間です。そこでは、即興演奏をキーワードにしていますが、様々なジャンルや背景の人が集まっていますが、他方で広がりすぎず、かといって特定のジャンルに閉じすぎることもなく演奏が続いています。それらを支えているのは、いくつもの影たちが、浮かんでは消えていく、ほのうす明るい白い場所でした。もちろん展示としての作品や技術上の問題もあると思いますが(例えば、外界の風景をリアルタイムで写す、ということもできたはずと思いますが)ここではこの白い場が、オンライン上に一つの空間をつくっていて、それが過剰な解放や過剰な閉鎖性の間で、バランスをとるように機能しているように思われました。

場の問題、空間の問題は、リアルな演奏やパフォーマンスでも重要ですし、また最近はズームなどで様々な形の(オンライン上の)背景も見られるようになっています。そこにおいて、カルテッツオンラインは、先の展示をネット内に変換するにあたって、その白い空間を維持しており、そのことは一つの方向性としてうまく機能しているように思いました。こうした問題は、おそらくこれからの、オンライン上の作品が一般化してくるだろう傾向の中で、問われてくることのように思います。

 

 

というところで、対談や追加情報を踏まえて、感想を追加してみました。まだ演奏は長く続くので、良ければ実際に見てみるのもいいように思います。今回はこんなところでした。

 

《カルテッツ・オンライン》 

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