正義の回復

 

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TOKAS本郷で企画「藪を暴く」関連で居原田さんと花崎さんのトーク&パフォーマンス。沖縄の状況を扱った企画意図や制作過程もさりながら、そうした問題を扱うに際しての表現における迷いや、パフォーマンスという形式がもちうる力など、現在形の論点が話し合われて、たいへん刺激的でした。 午後7:35 · 2020年1月18日

 

1月17日から2月9日まで開催された展示でのパフォーマンスを見てきました。企画は居原田遥さん、タイトルは『藪を暴く』という、恐怖をテーマに新作を制作したもので、遠藤薫さん、花崎草さん、柳井信乃さんが参加。特にパフォーマンスを中心に見て、ツイッターに随時、感想をあげていたので、それについて、ツイートと合わせながら、まとめておきたいと思います。

まず、パフォーマンスは、花崎草さん。とはいえ、個人的には、実に多様な顔をもっているということで知っていました。

最初は、花崎さんとは去年春に台北の旅行で知り合いました。宿泊先を探していたところ、ノイズなどの演奏もしている草御殿という場所があって、そこに宿泊施設もあると知り、当時運営をしていた花崎さんに連絡を取ったのが、最初です。結局そのときは花崎さんは日本にいて会えず、けれどそのあとも連絡を取っていて、再び台北に行ったときにもお会いしました。

というわけで、最初は施設のマネージャーとして知ったわけですが、実は花崎さん自身がパフォーマンスをするアーティストであることを、そのあとで知ります。また、いくつかライブ・パフォーマンスの映像も拝見して、非常に優れた身体表現をする方だという印象が強くなりました。とくに花束を使うパフォーマンスは不思議な魅力を覚えたりもしました。

一方で、非常に強い政治性も持っている方という認識もありました。お話を伺っていくと、その活動の原点の一つは震災後、直後から始まった反原発デモで、そのアクションの只中にいた方だと知ることになります。いわゆるシールズが出てくる前で、個人的にはツイッターなどでそのデモを知ったり、たぶん一回ぐらい行った記憶もありますが、最初期のデモですね。そのときに、大友さんを呼んだイベントをやったり、福島の問題にもコミットしていたとうかがっています(あと、ご家族が福島に在住されているようです)。それから、日本を離れてイギリスへ、さらに台北にレジデンスで行き、そこで活動をしていると、そうした活動の軌跡があると理解しています。パフォーマンスそのものは、大学時代から、とくに芸大の院で本格的に試み始めたようです。

ということで、最初は海外で活動するマネージャーの方だと思っていたのですが、同時に、パフォーマンス・アーティストであり、また政治的な側面も持っている、多様な顔を持っている方だと認識していました。

 

それで、こうしてまとめてみると、そのいくつもの顔が、まとまって見られたのが、今回の展示とパフォーマンスのように思われます。ちょっと描写しておきましょう。

場所は展示室の一つ。14畳ぐらいでしょうか、床はコンクリートむき出しで、ゴツゴツしています。壁は白。そこに、右の壁に映像がプロジェクションされていて、左には舟が吊るされています。

右の映像から。映像は、沖縄の辺野古と、その政治状況の現在を扱ったものです。冒頭、次のような言葉が流れます。

なぜ、わたしの声を聞こうとしないの?

わからない

本当はわかるでしょう?

この箇所で、問題提起はほぼすべて言い切っていると思います。映像は続き、静かな辺野古の海岸が映ります。政治や暴力は全く感じられない、静かな映像で、そこに花崎さんが立っています。それから画面は何度か切り替わり、フードをかぶり黒子のような格好の花崎さんの手と指が様々に差し出され、あるいは後ろ向きに腕を伸ばそうとする動きが映っていきます。途中から、鉄格子の映像とともに、県民投票のデータが映されます(注:2019年2月24日に、普天間の施設の代替として辺野古で建設用埋め立てが行われることへの賛否を問うたもの。県の住民投票条例に基づき実施され、反対が71.4%を占めた。が、その後も埋め立ては継続されている)。続いて、力を示す剣と、真実の天秤をもち、布で目を覆っている神話上の「正義の女神」の姿が登場し、「天秤のもう片方に乗っているものはなんなの?」「民主主義より大事なものって、なんなの?」という問いが示されます。県民投票の結果と、海岸の埋め立てといったことが、当然頭に浮かぶでしょう。そして、それについての恐怖、一度失ってしまえば取り戻せないという言葉が続きます。それに合わせて、焼け落ちる首里城の映像が流れていく。

それから会場のスピーカーから、三線で演奏される「Fly Me To The Moon」として知られる曲が流れていきます。これは原曲が「In Other Words」で、展示・パフォーマンスのタイトルでもあります。音楽にあわせ、再び辺野古の海岸が映り、その海岸線の向こうへと歩いていく花崎さんの姿で映像は終了します。かなり政治的なトピックを扱ったものですが、映像はひじょうに抑制されていて、大げさな身振りや感情の発露の表現はほとんどありません(文字で、一度失われてしまうことが「怖いの」と、一度だけ記されます)。海の映像も、晴天の海岸と波だけが映されたもので、むしろ明朗で美しい印象をもちます。

 

左には、舟が吊るされています。これは、以前にパフォーマンスで使用したもののようですが、福島の倉庫に置かれていて、今回このために再び持ち込まれたもののようです。ただ、舟には大きい布でくるまれていて、中はあまり覗けません。ただし、その中に、何か人影のようなものがあり、両手を奇妙な形にもたげたまま硬直しているところが、見方によってはひどく苦悶しているような姿でいるところがわずかに覗きます。この舟のなかの人影あるいは人形が何を暗示しているのかは、展示だけでは明示されていません。右の映像から想像するに、政治的な判断(正義の女神)の力によって、さまざまに影響を余儀なくされている海の、そのそばで苦しんでいる人の姿のように想像されました。

 

このように、展示は、非常にシンプルで抑制された調子で支配されていたと思います。かなり薄暗い室内で、照明は、映像のプロジェクターの光のみ。一方で、左側の舟をくるんでいるのは非常に大きな濃紺の布で(これは室内の床全部を覆うほど大きいものであることは、のちにわかります)、薄い明かりに、ほのかにブルーの色調が室内を満たしていました。ただ、この展示だけを見ると、政治的なステートメントと、その嘆きをあつかった作品、として見ることができると思うのですが、その解釈は実際のパフォーマンスを見ると、裏切られることになります(あるいは、パフォーマンスにおいて展示のテーマはより深く掘り下げられて展開されていきます)。それについて見ていきましょう。

 

 

あんまり言うとネタバレになるので控えてるんだけど、パフォーマンスでありながら途中かなりストーリーテリングで、パントマイムに接近しながら、不意にある登場人物が出現する。その意味が非常に政治的で、かつ、その人物に対してどう振る舞うかという問題が出てきて、しかも毎回ちがう。 午後7:36 · 2020年1月18日

 

パフォーマンスを見た最初の感想が、これでした。パフォーマンスでは、次のように展開します。まず、黒子のようにフードをかぶった花崎さん(パフォーマー)がいて、壁には右に、上記の映像、正面にはスマホで撮影中の室内の映像が流れています。左には、変わらず舟。映像が始まると、それが開始です。

そして、パフォーマンスが進んでいくと、ある展開があります。ここにある「登場人物」というのは、映像にイラストで出てきていた「正義の女神」のことを指します。実は舟の中に横たわっていたのは正義の女神で、黒子のような格好をした花崎さんはまず舟をくるんでいた布をほどき(かなりの大きさであること、また濃紺の生地は舟の浮かぶ水面のようにも見えることが、ここでわかります)、そして中にいた人影が引き出され、椅子に座らされ、手に、天秤と剣を持たされ(どちらも舟底に置いてありました)ます。そのときはじめて、これが「正義の女神」についてのものであるとわかるのです。

 

不意に人物がでてくるばかりか、さらに音楽もでてきて(「イン・アザー・ワーズ」)、その歌詞にあわせるように変化していく。映像では沖縄の海やフェンスが映ってるんだけど、なので2回ひねりがある。これは、結構びっくりしました 午後7:37 · 2020年1月18日

 

これが二つ目です。パフォーマンスの展開を説明しています。つまり、こうして君臨した「正義の女神」ですが、映像の言葉とあわせると、ひどく暴威を振るっている存在としてあるように思われます。が、パフォーマンスが展開していくのはそうではなく、むしろ女神がどこかおかしくなっている、あるいは狂っている、少なくとも衰弱しているというような状況でした。疲れ切った女神を楽にするように天秤と剣を手元から外し、目隠しを取り去り、それでもいびつに体をねじっている女神を、パフォーマーは癒すように抱きしめていきます。これは、なかなか驚きでした。

さらに、パフォーマーはその抱きしめた女神を連れて、ふたたび揺れる舟の中に横たわります。ゆるやかに「In Other Words」の旋律が流れるなか、その姿を抱きしめる。歌詞の「in other words」の箇所を思いおこすと、それはあたかも正義の女神を癒し、抱擁するものであるという、特異な情景として浮かびあがってきます。(実は最初にパフォーマンスを見たとき、女神を抱えて舟にのるところで「Fly Me To The Moon」が流れたので、まるで「問題を丸ごと月へ持っていきたい」という投げやりなメッセージかと当初おもいました。そのまま見ていると、「言い換えると、」というところで抱擁と、こう言ってよければ愛撫が見られ、つまりこれは何らかの形で失調した女神を癒しているのだ、と理解されることになります)

最初みたとき、かなり驚きました。というのも、映像の方では、かなりストレートに「正義の女神」を揶揄しているように見えたわけです。が、パフォーマンスでは、正義の女神そのものが、本来はたすべき役割を(何らかの理由で)阻害され、失調されるように追い込まれている姿が浮かび上がっていました。これは、いうまでもなく正義を果たす中央政府の状況を指しているのであって、一見して暴力性はありませんが、極めて政治性の強い表象となっています。つまり、映像で示されている政治性はそのままに、むしろより深化させたイメージが登場した。正直、当初の予想としては、恐怖を扱うパフォーマンスということで、かなり身体的に暴力性のあるものを想像していましたが、じっさいには(ブログ冒頭の写真のように)むしろ薄闇のひっそりとしたなかで、息詰まるほど凝縮されたパフォーマンスが繰り広げられることになりました。

 

演劇からすればかなり簡素なセットだろうけど、映像に出てくるテキストと、現場の振る舞いがいくつも重なって、色々な感情や思考が喚起されて、沖縄だけでなく東京の問題にもなっていく。その圧縮の仕方はパフォーマンスだからこそのものというかんじがあり。大変考えさせられる作品だと思います 午後7:38 · 2020年1月18日·

 そういえば、今日みたパフォーマンスで、毎回すこしずつ違うのだけど(例えば一回目は無音、二回目は独白があり。他にも少しずつ違う)、二回目は序盤、動作が緩慢で、舞踏的な重みのある身体性を感じましたね。台湾は舞踏がけっこう盛んで、おお来た!みたいなところがありました 午前0:20 · 2020年1月19日

 

舟から姿を現す、真実の秤と、裁きの剣をもつ「正義の女神」。しかしその姿は、沖縄の景色を前に、なぜか自我は失調し衰弱しているかのように見える。ゆるやかに三線が流れるなか、黒子でも分身でも犠牲者でもあるような人物によって横たえられ、その苦痛が分有されていく 午後7:05 · 2020年2月1日

病んだ正義の女神という、法や正義、民主主義の執行者として、突如あらわれるこのイメージは、なかなか衝撃的。批評ぽくいうなら、ベンヤミンの「暴力批判論」の法維持暴力や神的暴力を思い出すだろう、極度に寓意的なイメージに驚く 午後7:09 · 2020年2月1日

このあとの展開はまだ変化していて。二日目に見たときは、女性が女神を抱きしめながら幕のなかに隠れたり、一緒に横たわり手を握りしめて終わりへ。今日は、演者が女神に入れ替わるように秤と剣を握ったり、分身のように腕を差し上げたりしていた 午後7:17 · 2020年2月1日

政治的状況を、こういう形で表象しているひとは、いないんじゃないかなあ。。。本来はたされるべき正義(つまり県民投票などですね)が、弱っているということですね。問題は沖縄でなく東京なのだ、、、 午後7:37 · 2020年2月1日

 いわゆる権力批判なのかなと思っていると、その権力の担当が衰弱している(しかも慰められる) 午後7:24 · 2020年2月1日

 

で、実はパフォーマンスは、公演ごとに結末がちがうんですね。しかも意図的に違うらしい。少なくとも僕が見た範囲では、例えば「正義の女神」が、人形から、演者本人に移行してきている。演者が、剣と天秤を持って立ち始めているんですね。実際、人形と演者は同じ格好をしていて、入れ替われる 午前0:59 · 2020年2月3日

 

そう、これで話は終わりませんでした。たしかに毎回、すこしずつパフォーマンスが変化していったのです。とくに大きい点は、「正義の女神」が登場したあと。最初は抱き上げて手をつなぐようなところで終わっていたのですが、次第に立ったまま長く抱擁したり、舟のなかでともに手を伸ばしたり、少しずつニュアンスが変わっていきます。

これは、ちょっとした違いのようですが、これまで得た寓意的な理解からすると、パフォーマンス全体での意義は非常に大きい。つまり病んだ女神はどう動くのか、演者はそれをどう癒すのか、あるいは天秤と剣はどうなるか。これらを、寓意が示している現実とあわせていくと、かなり複雑な奥行きがあることがわかります。実はパフォーマンスは毎週末の土曜日曜に三回ずつ、計24回おこなわれたのですが、その全体を通じて(作者によれば)一つの物語を描いていこうという計画で進められていました。

実際、何度か見ていくと、単に動作や小道具の動きだけでなく、次第にパフォーマー自体の役割も変化していました。例えばパフォーマーが目隠しをしていたり、横たわったり、女神の座る位置もすこしずつ変わります。この2月3日の時点では、書いてあるように、パフォーマーが女神の代わりをするような身振りを始めていました。剣を床でガリガリと鳴らしたり、鞘から刀身を引き出したりします。つまり、このままいくと、パフォーマーが剣と天秤を持ち、何らかの裁きを下すのではないか?といったような想像もされはじめていました。

 

そうしたところで、最終日にふたたび行きました。最後から二回目では、天秤にものが乗せられていて、一方には沖縄の地理を思わせる形の金属片、もう片方には、女神が目を隠しているはずの布が置かれ、天秤にかけられて、主題がクリアに提示されていました(図像上は目隠しは、誰か特定の個人だけを見ることなく裁きを行う「法の下の平等」の象徴とされています)。

そして最終回の感想がこちらです。

 

すべてから自由にした女神を舟に乗せ、吊るされて揺れていた舟そのものを地面におろして、濃紺の布が広がるところを後ろから押していく。天秤のもとにかえるようでも、海をはしっていくようでもある。その海はもちろん南の 午後6:28 · 2020年2月9日

問題はもとの場所にもどり、舟を押し出していく姿は祈りのよう(←メタファーを読み込んでいます)。光の具合もすごくて 午後6:34 · 2020年2月9日

 

女神は、体を舟に横たえ、その舟ごと大きく広がった青い布地のうえを押し出されていきました。その向かう先には、モニタはもう消えていましたが先ほどまで辺野古の海岸が映っていたー女神の行く先はその向こうで、おそらく海の向こうへと押し流されていく・・・それが最終演目のエピソードでした。神話的、神々しい、といった言葉が思い浮かぶような力のこもったものでした。まるで女神の病を、沖縄の海で癒すかのようなところもあり、いくつもの問題が回帰してからみあうような、複雑な感慨を覚えるものだったと思います。そのあとに、やや簡単な感想も記しました。

 

一貫して、シンボリズムに陥ることもなく。それもすごいですね。私とか凡庸だから、なにか意匠のはいったスカーフ巻くとか(シンボル操作)そういう発想になりがちですけど。そうじゃなくて、取り出したメタファー自体がうごいていく。 見たことのない神話創造みたいな。アレゴリーの世界 午後6:40 · 2020年2月9日

方法論的にはそうですけど、内容も、最後に問題が沖縄にさしもどされいくようで、結構ハードな感触、という。。。解釈によるかもだけど、個人的にはそう受け止めました。 午後6:43 · 2020年2月9日

 

 

ということになります。全体のストーリー、シンプルながら鋭さのある雰囲気、室内に複雑にレイヤーされている映像(右と正面に写っているだけですが、かなりの情報量があります)、その示しているメッセージなど、たいへんにインパクトを受けました。

まとめると、重要と思ったのは2つ。一つは、そこで出てくる「衰弱した正義の女神」というイメージです。暴力や正義、あるいは具体的に沖縄の問題を見るときに、しばしば短絡的に暴力を考えがちですが、ここでの作者はそうではなく、暴力の判断を下す存在に焦点を当てています。しかも、本来なら正常に役割を果たすべき存在が、今は病んでいる。あるいは、病者として失調をせまられている、といった方がいいのかもしれません。なぜ今、正義の女神は病んでいるのか。これは、問題を、広く沖縄から東京まで、暴力だけでなく政治まで捉えて、批判するものであろうと思います。もっと言うと、それは批判する視点でもあり、批判そのものでもある。

しかもこのイメージは、様々な問いを投げかけるものになっています。正義の女神が持つ天秤と剣、目を隠す布は、それぞれ具体的に何を示しているのでしょうか。その病は、何をもたらしているのでしょうか。真理、権力、民主主義、法の下の平等、正義、軍隊、外交、戦争・・・これらの多様な問題の関係が絡み合って、観る者にそれらへの問いかけをせまるものである、あるいは、より直截的には現在の日本の状況をそのまま凝縮しようとしたものであるとも言えるでしょう。また端的にこれは、今の社会から感じられる作者の恐怖の表象でもあって、現在の日本の民主主義や立法、行政、法執行(の停止)の状況を、政治的=心理的側面から提示した表現でもある。このイメージからは、そうした一つ一つが充分に重いいくつもの問いかけが投げかけられてきました。

もう一つは、パフォーマンスがもっている力というのでしょうか。実際、そのイメージは、いわゆる露悪的な表現ではなく、むしろ静謐な緊張感の中で、語りとともに変化し、進められていきました。個人的にはパフォーマンスといえばヨーゼフ・ボイスであったり、イヴクラインであったり。あるいはアブラモビッチやアコンチのような、直接的な身体や、あるいは観客との関係性自体を取り出し、巻き込んで破裂させていくようなところを思い浮かべます。そこに、今回のパフォーマンスは、寓話というか、かつて歴史上の演劇などで行われていたような、簡素ながら破壊的な物語をもつアレゴリカルな世界を登場させた。これにも、個人的には大きな衝撃をうけました。そこでは、何かのシンボルを登場させあれこれいじるというのではなくて、もっと大きなメタファーをそのまま人格化させ、さらにそのメタファー自体が動いて物語が形づくられていく。現実の社会からメタファーを取り出しているのだから、そのメタファーを動かしていくと、現実からは外れていくことになります。しかし、そうして現実から外れながら生まれてくるストーリーは、むしろありえるかもしれない物語(←現実)への想像力を働かせるものともなりますし、なにか新しい希望への祈り、のような力を持つでしょう(この点について、花崎さんのパフォーマンスは、複数の自身の映像の並列や、暴力を背景にした世界、アレゴリーという点で、非常にベンヤミン的だったと思います)。それは、問題の上でも、実際に最後まで語られ尽くしたストーリーの上でも、ひじょうに大きな力をもって観客の前にあったと思います。

 

最後に、感想をつけ加えておきます。1つは、作品として、全体がひじょうに抑制された感性で成立していて、相当に激しい政治的主題にもかかわらず、むしろシックで冷ややかな美意識で統一されていたことに、かなり驚きました。これは展示だけなくパフォーマンスもそうで、わずかな身振りや小さな歌声(最終回ではIn other wordsを抱擁しつつ口ずさんでいました)だけで、大きな意味を作り出す手法に、率直に感銘と、ある種の新しさを感じました。

2つ目には、冒頭で述べたように、作者の多様な側面がまとまっていたようにも思え、つまり東京から離れた問題を、パフォーマンスで、政治主題を恐れずに成立させていたと思われました。これは様々の経験がなければなかなか扱いきれない色々な要素を含んでいて、しかもパフォーマンスとして、芸術的な意義もあったことは上に書いたとおりです。主な活動場所が台湾や欧州ということで、あまり見ることのできない作者の作品に、これも率直に驚きました。

その上で3つめとしては、こうして作品を描写し、その意義を分析したとしても、何かモヤっとした、解決されていないものが心に残ります。それは、つまりここで扱われた現実の問題が、まだ残っている。この作品は(これもベンヤミン的ですが)芸術でありながら、現実の政治を扱っていて、観終わった後もなお現実の課題が作品の残余として、とどまっています。その鈍い感触は、けれど作者がパフォーマンスで示したようなある種の希望のイメージとともに、その問いを受け止めて向き合っていくものとして、心に刺さった棘のように、なおも残っています。

 

 

これ急にベンヤミンを挙げてるけど、個人的に理解した範囲で、ベンヤミンは暴力を考えていったら「どうして暴力(軍隊とか処刑とか)は可能なのか」を考えたんですね。で、つまり法律や、法の執行を支える概念(法概念)にたどり着く。法策定、法維持、あと民衆の暴動の正統性など。それが暴力論であると 午後8:09 · 2020年2月2日

 

で、実はそれは、そんなにオリジナルな発想ではないよね。例えば中世の欧州の議論でも、裁判所がどうできたかとか、軍隊が私兵や徴募、常備制に変化していくとか、議論されていて。ほとんど教科書で習うところで。同じ関心ですね。議論じたいは、ルゴフとか、もっと前か、1930年代には充実している。 午後8:13 · 2020年2月2日

 

ただ、それが議論全体の重要なコアであることは間違いなくて。そこを取り出す・たどり着いて、現在の問題として考えるのは、面白いというか重要だなと思いましたね/思いますね。

 

こう書くと、あたかもアカデミックな議論の枠内にあるように思われるかもですけど。実はアカデミックな議論って、分析することしかできないんですよね。そこから先へ行くには、何かの想像力とか、芸術とかになるだろうという。 例えばベンヤミンは、よくメタファーを使うんですよね 午前0:50 · 2020年2月3日

 

分析が終わった先へ、急に天使とかでてきて、メタフォリカルに話を進めていく。寓話的なあり方って、そういうのができるだろうと思う。言いかえるとそれは分析ではない笑。けれど、アートっていうか芸術だからできるやり方ですよね 午前0:52 · 2020年2月3日

 

今ずっと言及している作品は、たぶんそういうメタファーの世界に突入している、ように思えますね。そこは、政治分析では語れないところを、芸術ならではの可能なこととしてやっている とか教科書的に言ってみる。 午前0:55 · 2020年2月3日