2020年ベスト5音楽編

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Afterlife

では、2020年のベスト5です。私的な基準で。

 

1 unsound festival 2020 afterlife /11.10.2020

https://www.facebook.com/unsoundfestival/videos/359073675240995

 

オンラインフェスティバル。今年に入ってからCGだけの空間を作り始めた、台北のnaxs.corpと、以前からタッグを組んでいたmeuko!meukoがプロデュース&キュレーション。完全フルCGのゲーム画面の中に、演奏者の映像が埋め込まれ、客はその中を自由に移動することができる。コロナのロックダウンの中で、もっとも早く状況に反応し、もっとも早く完成度の高い世界を作り上げたものの一つではないだろうか。

演奏も、アリス・チャン、落差草原wwww、ガバ・モードゥス・オペランディなど、アジアの最先端の即興・実験・ダンスミュージックが揃っている

 

2 Flowers Part 4 - eteam with Sheryl Cheung

https://vimeo.com/474507933

 

今年も壮絶に嵐のようなノイズ&ミュージックコンクレートを繰り出したシェリルさん。本当は3月の展示も行きたかったし、ラッキングサウンド・フェスティバルでの怒涛の演奏も素晴らしかったが、映像ではリンク先のものを。

 

3 Betty Apple & Nerve: '我呢世都唔會俾你' | 4:3 Music Videos

 

 

台北のベティ・アップルと香港のナーヴとのコラボレーション。ナーヴは作曲家でもあって、ノイズや実験音楽もやっている。独特の身体表現が見られる

 

4 Prairie WWWW(落差草原) - Formosan Dream / Shells

 

 

台北の、自然と科学、伝統と現代が融合したような美学がそのままに。バトルズとも共演した気鋭の音楽 

  

5 Clipping - Visions of Bodies Being Burned: Enlacing & Pain Everyday

 

 

年末になって突然知り、大変なことになっていると知ったユニット。ヒップホップ。BLM。死と怒り。最後の曲はオノ・ヨーコの作曲作品のリアライゼーションで締めくくられるアルバムから。

 

番外

John Cale - Lazy Day (Official Video)

 

 

ジョンケイルの新作。完全にロックを脱し、ヒップかベースミュージックか。コロナやロックダウン下で投下された何もしない怠惰の音楽。78歳とは思えぬ、斜め上すぎて唖然とする角度からの創作。

 

 

ネット上の、一つの場所 《カルテッツ・オンライン》(その2)

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《カルテッツ・オンライン》については、少し前に、簡単な感想を書いてみました。今回はその続きです。

それで、久しぶりにそのページを開いてみたのですが、実は演奏しているところから、下にスライドできるんですね。そうすると、いろいろな情報と、あたらしいオンライン版にするための対談などが載っていることに(ようやく)気がつきました。それで、そこを読んでみて、再度の感想です。

 

で、その対談などを見ていると、前回の感想の答えあわせをしているような気持ちで読んでしまったわけですが、おおむね間違っていなかったことがわかって安堵するとともに、新しくわかったことで面白かったことも、いくつかありました。

例えば、このオンライン版が、コロナの状況(あるいは自粛やリモートの状況)の中で、やってもいいものとして考えられたこと。また、オンライン版にするにあたって、元の展示からいくつか工夫をしていて。たとえばパーツを2分程度に切ったり、フェードインして個々のパーツが登場すること、などのことが言われています。

前回も書いたように、美術館のバージョンでは爆音で長尺のノイズが展開したシーンもあったように思われ、そのあたりの違いがわかって面白かったですし、またパソコンなどの小さい画面で見るときに、今のバージョンで有効に機能しているという感じも、改めて受けました。とりわけ後者は、なんとなく画面を見ていると1時間程度は無理なく見ることができる(別タブを開いている場合もありますが、それも含めて)ところがあって、それはこうした理由によっているのかと、納得したところです。

 

あと、最後の方で、この作品のアルゴリズムについての説明がされていて、それも興味深かったです。仕組みとしては、一人の演奏が終わると、ランダムに次のパーツを選択していく、その組み合わせの集積として全体がふるまう、というわけですね。以前に、アンサンブルズ展については〈創発〉という、個々のパーツの動きが予測できない全体の組織を作り出していくという概念から見たことがありますが、まさしくそのように作られていることがわかり、興味深かったです。

くわえて、最後にAIとの比較もされていて。いわゆる機械学習で仮想人格を作り上げていくAIに対して、ここでは組み合わせで即興そのものを創出しているということが強調されており、やはり「アルゴリズム的即興」と呼ぶべき独自のものが作品として成立していることを実感しました。(こうした点については、もし「感想その3」があれば、書いてみようと思っています)

 

 

ところで、そうした、「インターネット」を前提にした、アルゴリズム的な即興ということをフムフムと思いながら見ていたら、すこし別の角度での事柄についても考えてみました。それは、ある種の即興の問題ですね。

どういうことかというと、唐突ですが、インターネットの特徴として、しばしば「セレンディピティ」と「フィルターバブル」ということが言われます。この二つは対の概念で、単純化するとセレンディピティは「不意に思わず良い出会いがあること」「偶然に予想外のものを発見すること」を意味します。「フィルターバブル」はその逆で、インターネットのブラウザなどが利用者の見たいものを選択し、また見たくないものをフィルターで遮断していくことで、結果として、フィルターの層が泡のように情報を隠し、「見たいもの」だけが前面に出てくることを指します。繰り返しですが、この二つは対の概念で、インターネットの(その中の利用者の)特徴を、よく示しているように思います。いいかえると、インターネットには偶然の予期しない出会いの機会に溢れていますが、同時に、そこに生きる利用者は出会いを制限している、ということであろうと思います。

 

どうして、この問題が即興にかかわってくるかというと、即興演奏の一つの醍醐味は、「予期せぬ出会い」というか、世界中にいる(ジャンルを問わない)誰とでも、その場で一緒に即興演奏ができる、ということにあると思います。思います、というか、そのように言われますし、実際に洋の東西を問わず、様々なジャンルや背景をもつミュージシャン同士が共演することは、たいへんに刺激的です。

 

で、その問題を、インターネットの中に移動させてみると、どうなるでしょう。

実は、インターネットの中に入ると、「予期せぬ出会い」はいくらでも可能性が開いています(セレンディピティ)。いくつものSNSなどで、次々に見知らぬこと、見知らぬ人に出会うという体験は、誰でもすることができます。

一方で、しかしインターネットで活動する場合は、極端なまでの関係性の狭隘を体験することにもなります。フィルターバブルの結果、見たい人、好きな人としか関係しないことになり、場合によっては自分の聞きたい声だけが場に溢れていく(エコーチェンバー現象)に追い込まれていくことでしょう。おそらくこれから、インターネットでの交流や、場合によったらそこを拠点にする音楽やアートの活動も(これまで以上に普通のこととして)たくさん出てくると思われますが、まずもってこの二つの問題に遭遇することが予想されます。

 

 

さて、こうしたことを踏まえつつ、あるいはぼんやり考えつつ、カルテッツオンラインの画面を見ていました。そこで面白いなと思ったのは、そこにある白い空間です。そこでは、即興演奏をキーワードにしていますが、様々なジャンルや背景の人が集まっていますが、他方で広がりすぎず、かといって特定のジャンルに閉じすぎることもなく演奏が続いています。それらを支えているのは、いくつもの影たちが、浮かんでは消えていく、ほのうす明るい白い場所でした。もちろん展示としての作品や技術上の問題もあると思いますが(例えば、外界の風景をリアルタイムで写す、ということもできたはずと思いますが)ここではこの白い場が、オンライン上に一つの空間をつくっていて、それが過剰な解放や過剰な閉鎖性の間で、バランスをとるように機能しているように思われました。

場の問題、空間の問題は、リアルな演奏やパフォーマンスでも重要ですし、また最近はズームなどで様々な形の(オンライン上の)背景も見られるようになっています。そこにおいて、カルテッツオンラインは、先の展示をネット内に変換するにあたって、その白い空間を維持しており、そのことは一つの方向性としてうまく機能しているように思いました。こうした問題は、おそらくこれからの、オンライン上の作品が一般化してくるだろう傾向の中で、問われてくることのように思います。

 

 

というところで、対談や追加情報を踏まえて、感想を追加してみました。まだ演奏は長く続くので、良ければ実際に見てみるのもいいように思います。今回はこんなところでした。

 

《カルテッツ・オンライン》 

special.ycam.jp

 

 

 

 

テレコミュニケーションの中の身体、路上から 『On Our(My) Way』

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『On My Way』中継風景。定点カメラだけでなく、それぞれの携帯やPCからの視点が交錯する。中段左端に、主催の一人、磯村暖さん

 

昨日、オンラインで、花崎草さんのパフォーマンスを見ました。場所は、UGO(うごう・烏合)という、新大久保に新しくできたオープンなアートスペース(の前の路上)です。花崎さんについては以前も記事を書きましたし、UGOについてはこちら

 

それで、見た感想としては、けっこう面白く、新しい感じがしました。パフォーマンスは次のような感じです。単純にいうと、UGOの前の路上(ピンク色!)で、小さい机を一つ置いて。あとは、ブラウンのジャケット・パンツ(ズボン)姿の花崎さんが、基本的には地面を這っている、という感じでしょうか。16時から開始で、少し遅れて見はじめましたが、どうやら最初に液体を頭からかぶり(大きいタライのようなものを使ったようです)、途中で飲み物を飲んだり、お湯をかぶったり、立ち上がっていたりしたようです。約2時間ほど。

 

面白かったのは、オンラインで参加できるというか、ズームのようなシステムがあって。花崎さんはいわばテレコミュニケーションが行われている空間の中で(も)身体を置いていたようなのでした。具体的には、アドレスのリンクをクリックすると、すぐにズームっぽいサイトに飛んで。それぞれの携帯やパソコンから見ることができます。カメラの1台はあらかじめ路上の机にあって、花崎さんをいわば中継しているカメラでした。他にもUGOの店内の様子や、店内に置かれたパソコンからのカメラ中継で、多元的です。さらに、スタッフの方々も、花崎さんを自分の位置から中継していて、視線が色々な角度から(店内や路上へ・路上から)交錯しているようなところが出来上がっていました。

そして、こういうカメラ視線の交錯のなかに、花崎さんもじかに入ってきます。どういうことかというと、たぶんヘッドセットのイヤホンとマイクを装着していて。そのイヤホン=マイクは、カメラの一つとつながっている。つまり、花崎さんはその画面の一つから、音声で、聞いたり話したりできるというわけです。お店にあるPCとか、それぞれの携帯からとか、話しかけると(おおむね)路上に這いつくばっている花崎さんと話ができる。挨拶から、今どんな感じかとか、作品についてとか。あるいは、パフォーマンスについての連想とか。カメラでは直接に近づいて花崎さんを見ることはできませんが(また花崎さんも、他の人を直接に視認していることもあまりなさそうでしたが)声だけはインターネットを介して中継されている。

ちょっと不思議な感じでしたね。体から、声と、あとは、その声が担っている思考というのでしょうか、それが切り離されて。テレコミュニケーション空間内にあるというのような。そうした感覚を受けました。いいかえると、路上では、これまたひどく緩慢に横たわって動いているところが見えるので、そうしたちょっと非日常的な風景と、鋭敏な声と思考との落差が、そのままPC画面から登場するようでした。

 

こうした身体と声(ないし思考)が切り離されている、という感覚を受けたパフォーマンスは、個人的には飴屋法水さんの「バ(ニシ)ング(ポイ)ント」や「ソ(ク)シン(ブ)ツ」を思い出させます。バングントでは、木の箱に数週間はいっていて、中は見えない、けど、そっとノックすると、そっと返事が返ってくる、という限界まですり減らされたようなコミュニケーションを体験したようなことがありました。またソクシンブツでは、逆に座り込んだまま人形のように動かないところで、声も思考もない身体を見ているという不思議な感覚を受けました。

それと似たような感覚を、今回の花崎さんのパフォーマンスでは受けました。身体と思考が切り離されている、という感覚は、どこか、人間の思考とは何か、実存とは何か、というようなことをふと考えさせられてしまうような光景でもあるのですが、それが、ネットの、テレコミュニケーションの中で出現しているような感覚です。

 

こうしてみると、路上でのパフォーマンスだけでなく、会議アプリを使った画面でのコミュニケーション自体も、作品の一部(一つの作品)であろうと理解されます。途中、「何か飲み物はありますか」と店内のPCから問われて、ヘッドセット越しに答えのあった飲み物を実際の路上にいる花崎さんに渡したりしていくなど、さらにインターネット内と、路上の現実とが交差していくようなシーンも見られました。自分のパフォーマンスしている身体を、カメラを通して映像としてもリアルタイムで起こす、というのは、花崎さんのこれまでの作品にも見られたものですが、会議アプリで多元的なコミュニケーションができてくると、テレコミュニケーションの中の身体という独自の位相があるようにも感じられたところです。

こうした、携帯やPCでのコミュニケーションはやはりどこか新しい感じ(というか、現在ようやく身近になった)がありますので、そういう意味において、とても新しく、面白く感じた次第です。

 

新しい場所ができて、ようやく新しい動きもあるのかもしれないと思うと、いろいろと大変な昨今ですが、少し楽しく面白いですね。今回は、こんなところでした。

 

 

影たちの即興 - カルテッツ・オンライン

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大友良英さんとYCAMで共同制作された「quartets online」を聴いています。現在、インターネット上で公開中。大友さんと7人の音楽家が、ネット内で即興演奏を繰り広げているところです。

それで、これは一年間つづくということで、感想というのはまた書くかもしれませんが、とりあえず思ったことなどを。

 

まず、これを見ていると、即興演奏について考えてしまいます。正確には「即興演奏」「コンピュータ」「インターネット」というあたりのキーワードでしょうか。幸か不幸か、そうしたことに関心があるので、少し振り返ってみたいと思います。

即興演奏というのは、ずばりですね。自由に演奏する。もうちょっというと、即興演奏自体は古くからありますが、それを積極的に取り出した1960年代以降の「即興演奏」の流れでしょうか。

イギリスのデレク・ベイリーが、既存の音楽的な語彙や文法によらない、ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションをはじめて。それから80年代にはニューヨークのジョン・ゾーンが、様々な音楽の要素をコラージュするように、多様なジャンルの音楽家とコラボレーションした「ポスト・モダン」とも呼ばれるもの。

さらに、90年代から2000年代にかけて、東京で、音のテクスチャーや音量などに焦点をあてて繰り広げた、いわゆる「音響」。大友さんも、バンドのグラウンド・ゼロではポストモダンなコラージュを試みていますし、それから90年代後半からはサイン波で演奏するSachiko Mとのユニット、フィラメントや「カソード」などの作曲作品でこれらの流れに名を連ねています(し、また世界的にも活躍しています)。

 

と、2000年代まで来たところで思い出すのが、次のキーワードのコンピュータです。今ふりかえると、もしかして「音響」にも大きな影響を与えたのかもしれませんが、この時期にはコンピュータが音楽に入ってきて、即興にも登場しています。95年にはウィンドウズ95が出て、インターネットが一般的になり、さらに2000年代にはラップトップの薄型pcも出てきて。

様々なアドリブやテクニックが競われる即興演奏で、一台の薄い金属板をポチポチするだけで、豪華な電子音が出てきたり。またプログラミングで、ランダムな音の出現が可能になったりと、大きな変化と位置づけられるでしょう。

とくに、デレク・ベイリーの考え方に沿っていけば「既存の音楽の文法に従わない」という点で、ランダムな音の出現を可能にするコンピュータは、理論的にも即興の延長(ないし乗り越え?)のように思われます。この辺りは、『即興の解体』という本で、著者が詳しくこだわって論じていますね。

 

そこで話を戻すと、大友さんは、2005年あたりから、そうしたコンピュータ制御による作品を作り出していました。正確には、美術作品ですね。サウンド・アートというか。様々な美術作家やエンジニアの人たちと協働して、サウンド・アートもしくはメディア・アートのようなものを作っています。

例えば、「ウィズアウト・レコーズ」という、小さいレコードプレーヤーをたくさん使って。題名のとおりレコードなしで、針が台をじかに打ったり、モーターの回転音がしたり。あとスピーカーがフィードバックノイズを出したりする作品が、そうだと思います。これはコンピュータ制御で、ランダムに、その場で音を出して「音楽」を作っていく。その場に大友さんはおらず、展示作品ですが、しかし即興演奏とおなじような原理で音が作られていくというものだったと思います。

こうした作品は、さらに2008年から2010年まで、「アンサンブルズ」という連続展示に展開して行って、いろいろな美術家たちとの協働で、YCAM水戸芸術館、あと東京では現在3331になっている場所の屋上で、展示が繰り広げられました。個人的にはその東京での09年の展示について、あれは屋上の野外で展示があったので、刻々と変化する都市環境音との創発的な即興アンサンブルとして、以前に考えたこともあります。

 

そして、この「quartets」という作品は、もともとは、その一連の中の、08年にYCAMで行われた「アンサンブルズ」で制作されたものですね。とはいえ、ネットではなく、実際の展示作品としてで、同じものは、のちに新宿のiccで展示されたときに見たことがあります。

参加している音楽家は、当時の音響で世界的に活躍していた人ばかり。演奏も、折々に隙間があって、音は音程のあるものにかぎらずテクスチャーによっているものも多いですね。トランペットを吹く息の音、金属の擦過音、アナログシンセの断片的な電子音、サイン波、ターンテーブルを叩く音、フィードバックノイズ、ときおり、ギターや歌声がかすかな旋律をかなで、その間を行き来するように笙の和音が、豊かな音塊として通り過ぎていきます。

一方で、この作品は、先ほど見たメディア・アートというかコンピュータを用いた即興作品でもあって。展示では、白いキューブに、演奏者の影が映され、それに合わせて演奏する音が流れました。ここでの眼目は、つまり組み合わせというか、すでに一度それぞれ録音・録画したパーツを使って、しかしそれらが間欠的な演奏をしているため、相互に組み合わさることで、新しいメロディや音楽となって立ち現れてくるところだと思います。もちろんそれぞれも即興演奏の録音・録画ですが、それらをランダムに組み合わせていくことで、その全体が、新しい即興演奏として展開していく。「アンサンブルズ」の名の通り、コンピュータによって出現する即興アンサンブルであるというところではないでしょうか。

 

 

少し、振り返ってしまいました。こうして振り返ってみると、すでに元の展示の08年の時点で、即興演奏の原理においてはいくつか革新的なことを含んでいたことがわかります。とりわけコンピュータで制御された、その場に人はおらず、個々のランダムな再生で全体が新しいアンサンブルとして生成されてくること。また、スタイルとして、テクスチャーを重視した演奏(これは、和声進行によるインタープレイを基礎としたアドリブよりも、方法論的にランダムな即興アンサンブルを作りやすいという特徴もあると思われます)。とはいえ、一方で各人はそれぞれ個性的であって、実際に聞いてみればノイジーであったり、スピード感があったり、繊細な歌声やギターの響きなど、多様で雑多な性格をもつ音楽としても立ち上がってきます。こうしたものが、一つに集約された作品だと、言ってもいいように思います。

 

では、いま見ている、この2020年版の「カルテッツ」とは、何がちがうのでしょうか。一番大きいのが、もう一つのキーワード(ようやく出てきました)インターネットだと思います。この作品は、いま、インターネット内で生成されて、それがリアルタイムで目の前のモニタに映し出されている。生の即興アンサンブルなわけです。

もう少し言うと、元の展示と大きく違うのは、08年版は、作品が「空間」によっていました。つまり白いキューブがあって、その各面に影が映し出され、それにしたがって各所のスピーカーから音が流れていた。全体のアンサンブルは、そうやって出てきた音が展示空間内で一つにまじわって、巨大なアンサンブル(カルテット)を構築していたわけです(ちなみに、影も等身大の大きさがあり。さらに向かいの壁面には別の美術作家の映像と音声があって、それともコラボレーションしていた記憶があります)。そうやって、空間の中で、実際に音が出て、それが一つのものとして響いていたわけです。

その空間性は、いいかえれば、ある種の身体性と言ってもいいかもしれないです。実際に、展示室内に入った時は、左右から鳴るサイン波が耳を通過しましたし、ノイズは轟音として、笙の和音は空間全体を包むように響きました。文字どおり、振動が体を揺らしているのが分かると言ってもいいかもしれません。

そこから、2020年の版では、インターネットの中へと、モニタの奥へと姿を変え、その場所で音を鳴らしています。物質性や身体性は姿を消し、重力のない、本当の影のようになって、なおも即興のアンサンブルを奏でています。というよりも、それは本当に影であるというか、実際に演奏者たちのある時間の痕跡であり、シルエットとしての影であり、そして肉体性をなくした姿としての影でもあるーこうした点で、もともと影をつかった作品である本作品は、こうやって(ネットの中で身体性をなくすことで)ようやく本来の姿をあらわしたようにも思われます。

 

 

さて、ここまでで、ようやくこの作品にたどり着いたばかりです。このインターネットの即興演奏、影たちのアンサンブルは、では、どのような作品と音楽を作っているのか。そうしたことも考えてみてもいいかもしれません。

たとえば、もしかすればこうしたモニタにのみ現れてくる身体性と集団即興の姿は、いま現在の状況—つまりコロナで自粛をするなかに広がるリモートの状況、そこで私たちはモニタ上にしか存在できず、そこでコミュニケーションを図っています—におけるリアリティを、あらためて差し出しているようにも見えますが、それについては、もう少し先まで音楽を聴いてみて、考えてみることにしたいと思います。

 

 

 

[quartets online]  http://special.ycam.jp/quartets/

 

参考

佐々木敦『即興の解体/懐胎―演奏と演劇のアポリア青土社、2011年

 

 

 

テレパスとSyrpheとベイルートのこと。

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少し前ですが、新曲が出たので、備忘録を兼ねて。

ドイツ在住のセドリック・フォーモントが運営しているレーベルSyrpheから、4枚組のアルバムが出ました。タイトルは「Retrieving Beirut」。少し前ですがベイルートで起きた大規模な爆発事故のケアのための、ベネフィット企画です。ここに、ドンゾーさんとのデュオ「Tele-Path for violin and noise」を寄せています。

syrphe.bandcamp.com

 

少し説明を。セドリックは、コンゴ出身で現在ベルリンに在住。元はパンクロックをやっていたようですが、近年ではアジアやアフリカ各地の音楽、と言っても伝統音楽ではなくてバリバリの現代的な、ノイズや電子音楽をリサーチして、コンピを作ったり解説の本を書いたりしています。アジアのノイズを扱った「Not Your World Music: noise in South East Asia」は、音源集と大部の書籍で、アルスエレクトロニカのグランプリを獲得しました。「お前の考えるワールドミュージックとかじゃない」というタイトルは、しばしばアジアというと伝統音楽を思い浮かべてしまいがちな私たちの思考に、ガツンと来る感じがよく表れていると思います。

syrphe.bandcamp.com

 

他にも、アジア各地の電子音楽集も出していて、ここでは女性の電子音楽家の作品が多数収められています。これも大変に美しいアルバムだと思います。

syrphe.bandcamp.com

 

さらに今年1月には「Alternate African Reality – Electronic, electroacoustic and experimental music from Africa and the diaspora」と題する、アフリカ各地でリサーチにもとづく音源集も出していて、全32曲、かなり膨大な電子音楽が収められています。

syrphe.bandcamp.com

 

それで、このSyrpheから、ベイルートの事故のあと、急遽、ベネフィットアルバムを出したいという情報が出てきて。そこに寄せたのが上記の作品です。このアルバムも、これまた大部で4枚組。全部で8時間以上あると言われています。それぞれ、ゆるいジャンルに分かれていて、ノイズ、実験音楽、ビートもの、アンビエントなどです。参加しているのはセドリックの人脈によっているところで、インドネシアなど東南アジアから、中東、アフリカ、欧州など各地から音楽家が作品を寄せました。アカデミーからノイズまで、なかなか面白い内容です。(ちなみにセドリックは全曲のミックスもやっていて、8月初旬にオープンコールをしてから7日に出すまで、ほぼ徹夜で作業をしていたようです)

 

ここに寄せたTele-Pathと言う曲は、以前にネットワーク企画「パジャマオペラ」のために作った作品の、再ミックスになっています。もともとかなり爆音かつ高音のノイズ作品でしたが、YouTubeでの映像に際しては音量ちいさめにしていて。それを元に戻しました。パジャマオペラでこれは公演されましたが、聴衆が耳を押さえていた風景はなかなか忘れられません。その元のものに、戻っています。幸いにしてセドリックも気に入ってくれたらしく、「Wire」のミックス集にこれを挙げてくれました。この、長い自粛期間で、唯一ちゃんとした形で作れたノイズ/現代音楽だと思っているので、ぜひ試聴をどうぞ。

 

また、このアルバムの収益は(一切利益を取らず)すべてそのまま、ベイルートNGOやボランティア団体、現地の音楽家団体に寄付されるそうです。すでにある程度が、建設支援団体と、地元の音楽組織に送金されたとのこと。よろしければ、そんなところもお願いします。

*4曲目にノイズで知られるデイブ・フィリップスの作品がある、4枚目。なお各トラックごとに詳細なアーティストの履歴とリンクが貼ってあり。様々な音楽家を知る入り口にもなります

syrphe.bandcamp.com

 

はい、とりあえず、そんなところでした。引き続き、続報あれば随時更新します。

 

 

 

遅延する世界でゲームをする:自作解説

唐突ですが、『マトリックス』という映画はご存知でしょうか。たぶんご存知だと思いますが、主人公たちが仮想空間の中に入り込んで戦ったり生き返ったりする映画でした。3部作ですね。

その中で、印象的なシーンはどこか、というと、アクションシーンだと思います。とりわけ有名なのは、主人公が覚醒して、異様に高速な動きが可能になった時。遅れていく弾丸の軌跡が見えるシーンがよく知られていると思います。あるいは個人的には続編でのカーチェイスで、車がひしゃげたあと、時間差でそれが現象として反映されていくようなシーンですね。これらは、あるアクションが、仮想空間内での処理時間を経過することで、少し遅れて反映されていくような感触を見事に表していたと思います。

 

ところで、このコロナ自粛期間中、いくつか、遠隔における演奏の作曲を試みました。作曲で、手法として即興が取られています(指示として、各演奏者は即興する、ということになっています)。で、これまで考えてみたかったことをいくつか実際に作ってみるという体験をしたわけですが、だんだんと集団即興の試みや、指揮などを考えていくことになりました。その時、新しい問題として出てきたのは、上に書いたような処理における遅延(レイテンシー)の問題です。

遠隔で即興なり、集団の演奏を考える時、どうしても立ちはだかるのが、この遅延でした。遠隔が通信として行われている以上、それが距離を移動する際に(つまり地球上を移動してくる際に)実際に顔をつき合わせているよりもほんのわずか、遅れが生じます。たとえコンマ3秒であっても、「あ」とか「い」とか、あるいはドラムの一打を叩くのにも十分であって、つまりズレが生じるんですね。それが、お互いに生じていきます。

なので、それはまるでマトリックスのそれのように、あるいはもっと緩慢な、遅延する時間の中でのゲームのようになっていく可能性があります。その中で、何ができるのか。そうした問題が、次第に問題意識として浮かび上がってきました。

以下は、そのような問題も含めて、作ったいくつかの作品です。

 

1 天使を探して

これは、一番最初に作ったものです。天使がテーマなのは、特に意識はしていませんでした。この時点ではソロ作品ということで、レイテンシーは問題になっていません。

見ての通り、微分音の声での即興について、数秒おきに、視点を変えてやってください、という指示の作品です。見るということ(アイコンタクトを含めて、互いに見るという行為がしばしば見られます)が即興演奏においては実は大きな意味を占めているというのが以前から気になっていて、そこを逆手にとって着想しました。これは、実際に演奏してもらったことがあって、よく機能したというか、おそらく想像されるより遥かに高難度の作品だろうと思いますし、視線を変えると自然と音も切れたりして、自動的にカットアップ傾向になったり、そこをひねったりなど、色々なことが起こって面白かったです

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2 ネットの中のエウリデュケー

これは、2番目に作ったものですね。ここでも「見る」という行為を逆手に取ろうとしていて。しかしここでは観客が「見る」ということを問題にしたものです。エウリデュケーは、ご存知のように吟遊詩人オルフェウスの妻で、冥界で「振り返ってはならない」という命令のもと、夫が連れ帰ろうとする話があります。ここでは、それにならって、真っ暗闇の室内で演奏することを求めています。

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3 レイテンシー・ピース

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この辺りから、遅れを問題にし始めました。着想としては単純で、時間の遅れがあるなら、それを取り込んだ作品にすればいい、ということになっています。これを考えると、念頭にあったのは、ジョン・ゾーンがやっていたゲームピースで、いくつかの指示を与えるカードを用いて、即興をコントロールしていくというような作品群でした。ただしここでは時間が遅れている。遅れている世界の中で、ゲームをどうやって成立させるかという、そんなルール作りを考えていくことになりました。

ここでのとりあえずの解としては、持続音あるいはいわゆるドローンですね。最初と最後の時間を決め、全員が持続音でやっていく。遅れて相手の音も聞こえ始めるだろうから、それと和音を作ったりして、取り組んでいくという試みです。これは3人の演奏者で実際にやったことがあり、互いの演奏が響きあったり、フィードバックがあったりして、それなりに機能して面白かったです。もちろんレイテンシーの感触もあって、10秒近く遅れて音が延々と流れるといった事態もあり。なかなか奥が深いですね。

 

4 3人の指揮者と1人のパーカッショニストのための

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ここでは、レイテンシー・ピースから、さらに発展させて、コンダクション(即興の指揮のこと)に取り組んだものです。ただし、通常の指揮では、遅れてしまうので合奏が困難であることが想像されました。そこで、ここでは反転させて、指揮者を複数たてることとし、一人の演奏者がそれらを受け取って演奏していく、という形にしてあります。指揮者の合図は、ただ指をふることで、受ける演奏者は3つの打楽器を使って、それぞれの合図を反映させていきます。これも試しましたが、大変にうまく機能していて。全員の時間が遅れているわけですが、その中で3人と1人が入り乱れる、独特の時空間を体験しました。再演も希望中です。

 

5 オリンポスでDJをすること

これは、遠隔で、離れた場所にいる人が、一緒にDJをするという作品です。仕組みは、ソフトの画面共有をつかって行い、ユーチューブなどのページを複数、タブで開いておいて、それらを互いに操作する、というだけです。画面共有で操作が可能な人数は、ソフトでそれぞれ異なるので、それ次第ですね。これはまだ試していませんが、フォーマットがうまく調整できれば、なかなか面白いのではないかと思います。

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4+ レイテンシー・ピースのためのノート

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最後に。レイテンシーピースを試した後の、感想と反省です。演奏形態について、実際の会場で演奏しながら、そのバックにリモートでの即興を行う、というプランが書いてあります。これは、現在、旧グッゲンハイム邸で行われている演奏の形態に近く、そちらもなかなか説得性があると感じました。その下にあるのは、電子音が遠隔では非常によく響くので、それをメインにした作曲構成をメモしています。

 

 

 

リモートの祝祭 コロナ・インプロ・セッションズ

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9月のアルスエレクトロニカ・フェスのためのリハーサル風景。リモートでおこなわれている

はい、また少し更新がおそくなりました。今回は、いわゆるリモートでのインプロヴィゼーションについて書いてみようと思います。対象は、ズバリ「コロナ・インプロ・セッションズ」。

このイベントは、前回、前々回と書いているハンブルクのシーンで、ティース・ミュンツァーさんという方がいるのですが(パジャマオペラの共同主催者でもあります)、その方の企画です。で、9月にあるアルス・エレクトロニカ・フェスティバルに、このイベントで参加するということで、これまでの記録を見たこともあって、少し書いてみようかと。

 

ホームページがあるので(https://www.thiesmynther.com/)、そこから説明を見ますね。まずミュンツァーさんは、ハンブルクを中心に活動する音楽家です。もともとは90年代にパンクバンドをやっていたようで、それから映画音楽や、近年ではロシアなど欧州各地でシアターピースを制作しています。最近では、「ムーンドッギング」と題したインスタレーションも作っていて、先日、街中でパレードをしたそうです。

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先週おこなわれた「ムーンドッギング」でのハンブルクの街中のパレード

で、この「コロナ・インプロ・セッションズ」ですが、今年にはじまった、いわゆるリモートでの集団即興ですね。きっかけはもちろん自粛期間。どうも記録によると、3ヶ月間、毎週日曜日に、知り合いのミュージシャンやパフォーマーが集まって、オンラインでパフォーマンスを続けていたそうです。3ヶ月毎週というのは、なかなか蓄積がありますね。

ちなみに、一度、その現場というかライブに立ち会ったことがあって。ズームで行われていました。参加者は10名ちょっとでしょうか。映像があるので、こちらをどうぞ。

 

Latency Now excerpt_1 from Anat bendavid on Vimeo.

 

 そういう感じですね。ご覧になるとわかりますが、最初はうごく図形楽譜です。それを演奏者がリアルタイムに読み取って、演奏していく。そのあとは完全即興ですが、音楽の演奏だけでなくて、パフォーマーというか、ダンスをしたり、画像を操作したりしている人たちがたくさんいます。また、音楽についても、声とか歌とか、言葉とか、そういうのが多いですね。映像は途中で切れていますが、実際は45分ほど続いていて、一人、ワードで文章を作っている人がいると思うのですけど、だんだんその文章をみんなで歌いながら読むとか、そういう感じになっていって終わりました。

 

このライブというか、実際に見たわけですけど、リモートで行われたものとしては、かなり本格的なというか、「インプロのライブ」というのを体験できたという感じがありました。かなりまれな印象ですね。なかなか面白い。

もう少しつっこんでみましょう。一つの特徴は、画面が切り替わることだと思います。ズームで、全員の映像があるわけですけど、かなりのスピードで画面が切り替わっていて、メインの(画面共有など)大写しになったり、全員が散ったり、図だけが出てきたり。あと、パフォーマーそれぞれが大写しになることがありますね。

これは、こうした画面のスイッチングをする人が、一人いたようです。その人は、たぶんパフォーマンスはしていなくて、画面の調整だけをしている。なので、この切り替えは意図的というか、おそらく即興の一部というか、作品の一部ですね。そういう、リアルタイムでの画面の作り方があります。

 

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パジャマオペラ初回でのミュンツァーさん。主催者の一人でもあります

で、これがなかなか面白くて。つまり、音楽の即興のようでいて、実際に見ていくと、画面全体の即興というか、映像でもあるし、その映像の統合の仕方もどんどん変わっていく。そういう何重かになっている映像の即興なんですね。で、その中で、それぞれのパフォーマーが、パフォーマンスをしている。

これは、ズームならではの使い方で、大変に興味深く思いました。ちょっとナムジュンパイクというか、マルチメディアアートぽいですよね。

 

もう少し音楽面にふれてみると、ここで特徴的なのは、とにかく声(歌)の多用ですね。いきなり全員がしゃべっているような感じに近い。とりわけ数人、明らかにプロの訓練を受けたとおぼしき人が歌ったりしゃべったりしていて、まるで即興的なオペレッタのようです。音質も、おそらく性能のいいマイクを使っているのか、たいへん良く聞こえますね。音質については、電子音はズームで聞こえやすいので、ここでも電子音が良く聞こえますね。

で、この声の多用というのは、個人的にはたいへんに面白いところで。というのは、ここ5年くらいでしょうか、アジアン・ミーティング・フェスティバルを見たり、あと福島でのイベントを中継で見たりしていると、即興演奏(とくに集団即興)での声というのが面白くなってきたんですね。アジアの音楽家たちは、結構平気で歌いますし、その場で、伝統的歌唱だったりロックぽかったりするメロディを作ることができます。

なんでこれに注目するかというと、いわゆる欧州というのでしょうか、欧米というのでしょうか、英米というのでしょうか、「フリー・インプロヴィゼーション」のシーンでは、歌う人というのはとてもまれなんですね。実は、その理論的な元祖であるデレクベイリーは、演奏しながら良くしゃべったりしているんですけど、そのあとは、そうした人はいなくなって。静かな室内で、黙々と楽器を演奏しているという人がほとんどを占めます。(ちょっと例外として、ウィーンを拠点にするトランペッターのフランツ・ハウツィンガーのプロジェクトを貼っておきます)

 

 

ですけど、そのデレクベイリー含めて、やはり声というのは、非常に大きいものではないかという、これは個人的な関心があります。そして、アジアの人たちや、お祭りなどで、不意に歌いだす人たちを見ると、とても感動するんですね。

そこで、こうした声を使う、というのを見て、それもなかなか面白いなと思いました。恐らくですけど、ずっとやっているうちに、一つの手法として確立したのではないでしょうか。全く違和感なく歌っていますよね。(下は、晩年、手の病を乗り越えて録音されたデレク・ベイリーの作品から。『説明と感謝』というタイトルです。はじまって少しすると、しゃべり始めます)

 

とりあえず、パッと思いついた感想は、そういうところですね。つまり、マルチメディア・パフォーマンスとして、画面内のウィンドウ自体が動くというところでも、多層な即興ができていること。また、非常に声が用いられていて、やかましいほどに歌い、しゃべっていること。まるで、演劇とオペラのあいだを行き来するようなシステムです。これが、即興セッションとして行われているところが、また面白いですね。

ズームなどを使ったリモート演奏というのは、今年いろいろと試みられていると思うのですが、その一つの参照として、この辺りが興味深いと思いました。

 

最後に、もう一つだけ付け加えると。全体を見ていると、これがとてもドイツの、というか、英米のパフォーマンスとは違う、例えばシュトックハウゼンのオペラとか、ああいうサイケでゴテゴテして、みんな喋るし蹴るし演奏もしているという、あの感じを、強く抱いた次第です。これはちょっと当て勘なのでわかりませんが、もしかすると、英米系のインプロなどとは違う、(あえて言うとドイツ語圏の)インプロのあり方が、ここに顔を出しているのかもしれません。少なくとも、そのインプロの仕方はズームとはとても相性がいいようです。

ということで、インターネットが当たり前になった2020年に、ちょっと面白かったインプロの話でした。今後のイベントも楽しみです。