正義の回復

 

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TOKAS本郷で企画「藪を暴く」関連で居原田さんと花崎さんのトーク&パフォーマンス。沖縄の状況を扱った企画意図や制作過程もさりながら、そうした問題を扱うに際しての表現における迷いや、パフォーマンスという形式がもちうる力など、現在形の論点が話し合われて、たいへん刺激的でした。 午後7:35 · 2020年1月18日

 

1月17日から2月9日まで開催された展示でのパフォーマンスを見てきました。企画は居原田遥さん、タイトルは『藪を暴く』という、恐怖をテーマに新作を制作したもので、遠藤薫さん、花崎草さん、柳井信乃さんが参加。特にパフォーマンスを中心に見て、ツイッターに随時、感想をあげていたので、それについて、ツイートと合わせながら、まとめておきたいと思います。

まず、パフォーマンスは、花崎草さん。とはいえ、個人的には、実に多様な顔をもっているということで知っていました。

最初は、花崎さんとは去年春に台北の旅行で知り合いました。宿泊先を探していたところ、ノイズなどの演奏もしている草御殿という場所があって、そこに宿泊施設もあると知り、当時運営をしていた花崎さんに連絡を取ったのが、最初です。結局そのときは花崎さんは日本にいて会えず、けれどそのあとも連絡を取っていて、再び台北に行ったときにもお会いしました。

というわけで、最初は施設のマネージャーとして知ったわけですが、実は花崎さん自身がパフォーマンスをするアーティストであることを、そのあとで知ります。また、いくつかライブ・パフォーマンスの映像も拝見して、非常に優れた身体表現をする方だという印象が強くなりました。とくに花束を使うパフォーマンスは不思議な魅力を覚えたりもしました。

一方で、非常に強い政治性も持っている方という認識もありました。お話を伺っていくと、その活動の原点の一つは震災後、直後から始まった反原発デモで、そのアクションの只中にいた方だと知ることになります。いわゆるシールズが出てくる前で、個人的にはツイッターなどでそのデモを知ったり、たぶん一回ぐらい行った記憶もありますが、最初期のデモですね。そのときに、大友さんを呼んだイベントをやったり、福島の問題にもコミットしていたとうかがっています(あと、ご家族が福島に在住されているようです)。それから、日本を離れてイギリスへ、さらに台北にレジデンスで行き、そこで活動をしていると、そうした活動の軌跡があると理解しています。パフォーマンスそのものは、大学時代から、とくに芸大の院で本格的に試み始めたようです。

ということで、最初は海外で活動するマネージャーの方だと思っていたのですが、同時に、パフォーマンス・アーティストであり、また政治的な側面も持っている、多様な顔を持っている方だと認識していました。

 

それで、こうしてまとめてみると、そのいくつもの顔が、まとまって見られたのが、今回の展示とパフォーマンスのように思われます。ちょっと描写しておきましょう。

場所は展示室の一つ。14畳ぐらいでしょうか、床はコンクリートむき出しで、ゴツゴツしています。壁は白。そこに、右の壁に映像がプロジェクションされていて、左には舟が吊るされています。

右の映像から。映像は、沖縄の辺野古と、その政治状況の現在を扱ったものです。冒頭、次のような言葉が流れます。

なぜ、わたしの声を聞こうとしないの?

わからない

本当はわかるでしょう?

この箇所で、問題提起はほぼすべて言い切っていると思います。映像は続き、静かな辺野古の海岸が映ります。政治や暴力は全く感じられない、静かな映像で、そこに花崎さんが立っています。それから画面は何度か切り替わり、フードをかぶり黒子のような格好の花崎さんの手と指が様々に差し出され、あるいは後ろ向きに腕を伸ばそうとする動きが映っていきます。途中から、鉄格子の映像とともに、県民投票のデータが映されます(注:2019年2月24日に、普天間の施設の代替として辺野古で建設用埋め立てが行われることへの賛否を問うたもの。県の住民投票条例に基づき実施され、反対が71.4%を占めた。が、その後も埋め立ては継続されている)。続いて、力を示す剣と、真実の天秤をもち、布で目を覆っている神話上の「正義の女神」の姿が登場し、「天秤のもう片方に乗っているものはなんなの?」「民主主義より大事なものって、なんなの?」という問いが示されます。県民投票の結果と、海岸の埋め立てといったことが、当然頭に浮かぶでしょう。そして、それについての恐怖、一度失ってしまえば取り戻せないという言葉が続きます。それに合わせて、焼け落ちる首里城の映像が流れていく。

それから会場のスピーカーから、三線で演奏される「Fly Me To The Moon」として知られる曲が流れていきます。これは原曲が「In Other Words」で、展示・パフォーマンスのタイトルでもあります。音楽にあわせ、再び辺野古の海岸が映り、その海岸線の向こうへと歩いていく花崎さんの姿で映像は終了します。かなり政治的なトピックを扱ったものですが、映像はひじょうに抑制されていて、大げさな身振りや感情の発露の表現はほとんどありません(文字で、一度失われてしまうことが「怖いの」と、一度だけ記されます)。海の映像も、晴天の海岸と波だけが映されたもので、むしろ明朗で美しい印象をもちます。

 

左には、舟が吊るされています。これは、以前にパフォーマンスで使用したもののようですが、福島の倉庫に置かれていて、今回このために再び持ち込まれたもののようです。ただ、舟には大きい布でくるまれていて、中はあまり覗けません。ただし、その中に、何か人影のようなものがあり、両手を奇妙な形にもたげたまま硬直しているところが、見方によってはひどく苦悶しているような姿でいるところがわずかに覗きます。この舟のなかの人影あるいは人形が何を暗示しているのかは、展示だけでは明示されていません。右の映像から想像するに、政治的な判断(正義の女神)の力によって、さまざまに影響を余儀なくされている海の、そのそばで苦しんでいる人の姿のように想像されました。

 

このように、展示は、非常にシンプルで抑制された調子で支配されていたと思います。かなり薄暗い室内で、照明は、映像のプロジェクターの光のみ。一方で、左側の舟をくるんでいるのは非常に大きな濃紺の布で(これは室内の床全部を覆うほど大きいものであることは、のちにわかります)、薄い明かりに、ほのかにブルーの色調が室内を満たしていました。ただ、この展示だけを見ると、政治的なステートメントと、その嘆きをあつかった作品、として見ることができると思うのですが、その解釈は実際のパフォーマンスを見ると、裏切られることになります(あるいは、パフォーマンスにおいて展示のテーマはより深く掘り下げられて展開されていきます)。それについて見ていきましょう。

 

 

あんまり言うとネタバレになるので控えてるんだけど、パフォーマンスでありながら途中かなりストーリーテリングで、パントマイムに接近しながら、不意にある登場人物が出現する。その意味が非常に政治的で、かつ、その人物に対してどう振る舞うかという問題が出てきて、しかも毎回ちがう。 午後7:36 · 2020年1月18日

 

パフォーマンスを見た最初の感想が、これでした。パフォーマンスでは、次のように展開します。まず、黒子のようにフードをかぶった花崎さん(パフォーマー)がいて、壁には右に、上記の映像、正面にはスマホで撮影中の室内の映像が流れています。左には、変わらず舟。映像が始まると、それが開始です。

そして、パフォーマンスが進んでいくと、ある展開があります。ここにある「登場人物」というのは、映像にイラストで出てきていた「正義の女神」のことを指します。実は舟の中に横たわっていたのは正義の女神で、黒子のような格好をした花崎さんはまず舟をくるんでいた布をほどき(かなりの大きさであること、また濃紺の生地は舟の浮かぶ水面のようにも見えることが、ここでわかります)、そして中にいた人影が引き出され、椅子に座らされ、手に、天秤と剣を持たされ(どちらも舟底に置いてありました)ます。そのときはじめて、これが「正義の女神」についてのものであるとわかるのです。

 

不意に人物がでてくるばかりか、さらに音楽もでてきて(「イン・アザー・ワーズ」)、その歌詞にあわせるように変化していく。映像では沖縄の海やフェンスが映ってるんだけど、なので2回ひねりがある。これは、結構びっくりしました 午後7:37 · 2020年1月18日

 

これが二つ目です。パフォーマンスの展開を説明しています。つまり、こうして君臨した「正義の女神」ですが、映像の言葉とあわせると、ひどく暴威を振るっている存在としてあるように思われます。が、パフォーマンスが展開していくのはそうではなく、むしろ女神がどこかおかしくなっている、あるいは狂っている、少なくとも衰弱しているというような状況でした。疲れ切った女神を楽にするように天秤と剣を手元から外し、目隠しを取り去り、それでもいびつに体をねじっている女神を、パフォーマーは癒すように抱きしめていきます。これは、なかなか驚きでした。

さらに、パフォーマーはその抱きしめた女神を連れて、ふたたび揺れる舟の中に横たわります。ゆるやかに「In Other Words」の旋律が流れるなか、その姿を抱きしめる。歌詞の「in other words」の箇所を思いおこすと、それはあたかも正義の女神を癒し、抱擁するものであるという、特異な情景として浮かびあがってきます。(実は最初にパフォーマンスを見たとき、女神を抱えて舟にのるところで「Fly Me To The Moon」が流れたので、まるで「問題を丸ごと月へ持っていきたい」という投げやりなメッセージかと当初おもいました。そのまま見ていると、「言い換えると、」というところで抱擁と、こう言ってよければ愛撫が見られ、つまりこれは何らかの形で失調した女神を癒しているのだ、と理解されることになります)

最初みたとき、かなり驚きました。というのも、映像の方では、かなりストレートに「正義の女神」を揶揄しているように見えたわけです。が、パフォーマンスでは、正義の女神そのものが、本来はたすべき役割を(何らかの理由で)阻害され、失調されるように追い込まれている姿が浮かび上がっていました。これは、いうまでもなく正義を果たす中央政府の状況を指しているのであって、一見して暴力性はありませんが、極めて政治性の強い表象となっています。つまり、映像で示されている政治性はそのままに、むしろより深化させたイメージが登場した。正直、当初の予想としては、恐怖を扱うパフォーマンスということで、かなり身体的に暴力性のあるものを想像していましたが、じっさいには(ブログ冒頭の写真のように)むしろ薄闇のひっそりとしたなかで、息詰まるほど凝縮されたパフォーマンスが繰り広げられることになりました。

 

演劇からすればかなり簡素なセットだろうけど、映像に出てくるテキストと、現場の振る舞いがいくつも重なって、色々な感情や思考が喚起されて、沖縄だけでなく東京の問題にもなっていく。その圧縮の仕方はパフォーマンスだからこそのものというかんじがあり。大変考えさせられる作品だと思います 午後7:38 · 2020年1月18日·

 そういえば、今日みたパフォーマンスで、毎回すこしずつ違うのだけど(例えば一回目は無音、二回目は独白があり。他にも少しずつ違う)、二回目は序盤、動作が緩慢で、舞踏的な重みのある身体性を感じましたね。台湾は舞踏がけっこう盛んで、おお来た!みたいなところがありました 午前0:20 · 2020年1月19日

 

舟から姿を現す、真実の秤と、裁きの剣をもつ「正義の女神」。しかしその姿は、沖縄の景色を前に、なぜか自我は失調し衰弱しているかのように見える。ゆるやかに三線が流れるなか、黒子でも分身でも犠牲者でもあるような人物によって横たえられ、その苦痛が分有されていく 午後7:05 · 2020年2月1日

病んだ正義の女神という、法や正義、民主主義の執行者として、突如あらわれるこのイメージは、なかなか衝撃的。批評ぽくいうなら、ベンヤミンの「暴力批判論」の法維持暴力や神的暴力を思い出すだろう、極度に寓意的なイメージに驚く 午後7:09 · 2020年2月1日

このあとの展開はまだ変化していて。二日目に見たときは、女性が女神を抱きしめながら幕のなかに隠れたり、一緒に横たわり手を握りしめて終わりへ。今日は、演者が女神に入れ替わるように秤と剣を握ったり、分身のように腕を差し上げたりしていた 午後7:17 · 2020年2月1日

政治的状況を、こういう形で表象しているひとは、いないんじゃないかなあ。。。本来はたされるべき正義(つまり県民投票などですね)が、弱っているということですね。問題は沖縄でなく東京なのだ、、、 午後7:37 · 2020年2月1日

 いわゆる権力批判なのかなと思っていると、その権力の担当が衰弱している(しかも慰められる) 午後7:24 · 2020年2月1日

 

で、実はパフォーマンスは、公演ごとに結末がちがうんですね。しかも意図的に違うらしい。少なくとも僕が見た範囲では、例えば「正義の女神」が、人形から、演者本人に移行してきている。演者が、剣と天秤を持って立ち始めているんですね。実際、人形と演者は同じ格好をしていて、入れ替われる 午前0:59 · 2020年2月3日

 

そう、これで話は終わりませんでした。たしかに毎回、すこしずつパフォーマンスが変化していったのです。とくに大きい点は、「正義の女神」が登場したあと。最初は抱き上げて手をつなぐようなところで終わっていたのですが、次第に立ったまま長く抱擁したり、舟のなかでともに手を伸ばしたり、少しずつニュアンスが変わっていきます。

これは、ちょっとした違いのようですが、これまで得た寓意的な理解からすると、パフォーマンス全体での意義は非常に大きい。つまり病んだ女神はどう動くのか、演者はそれをどう癒すのか、あるいは天秤と剣はどうなるか。これらを、寓意が示している現実とあわせていくと、かなり複雑な奥行きがあることがわかります。実はパフォーマンスは毎週末の土曜日曜に三回ずつ、計24回おこなわれたのですが、その全体を通じて(作者によれば)一つの物語を描いていこうという計画で進められていました。

実際、何度か見ていくと、単に動作や小道具の動きだけでなく、次第にパフォーマー自体の役割も変化していました。例えばパフォーマーが目隠しをしていたり、横たわったり、女神の座る位置もすこしずつ変わります。この2月3日の時点では、書いてあるように、パフォーマーが女神の代わりをするような身振りを始めていました。剣を床でガリガリと鳴らしたり、鞘から刀身を引き出したりします。つまり、このままいくと、パフォーマーが剣と天秤を持ち、何らかの裁きを下すのではないか?といったような想像もされはじめていました。

 

そうしたところで、最終日にふたたび行きました。最後から二回目では、天秤にものが乗せられていて、一方には沖縄の地理を思わせる形の金属片、もう片方には、女神が目を隠しているはずの布が置かれ、天秤にかけられて、主題がクリアに提示されていました(図像上は目隠しは、誰か特定の個人だけを見ることなく裁きを行う「法の下の平等」の象徴とされています)。

そして最終回の感想がこちらです。

 

すべてから自由にした女神を舟に乗せ、吊るされて揺れていた舟そのものを地面におろして、濃紺の布が広がるところを後ろから押していく。天秤のもとにかえるようでも、海をはしっていくようでもある。その海はもちろん南の 午後6:28 · 2020年2月9日

問題はもとの場所にもどり、舟を押し出していく姿は祈りのよう(←メタファーを読み込んでいます)。光の具合もすごくて 午後6:34 · 2020年2月9日

 

女神は、体を舟に横たえ、その舟ごと大きく広がった青い布地のうえを押し出されていきました。その向かう先には、モニタはもう消えていましたが先ほどまで辺野古の海岸が映っていたー女神の行く先はその向こうで、おそらく海の向こうへと押し流されていく・・・それが最終演目のエピソードでした。神話的、神々しい、といった言葉が思い浮かぶような力のこもったものでした。まるで女神の病を、沖縄の海で癒すかのようなところもあり、いくつもの問題が回帰してからみあうような、複雑な感慨を覚えるものだったと思います。そのあとに、やや簡単な感想も記しました。

 

一貫して、シンボリズムに陥ることもなく。それもすごいですね。私とか凡庸だから、なにか意匠のはいったスカーフ巻くとか(シンボル操作)そういう発想になりがちですけど。そうじゃなくて、取り出したメタファー自体がうごいていく。 見たことのない神話創造みたいな。アレゴリーの世界 午後6:40 · 2020年2月9日

方法論的にはそうですけど、内容も、最後に問題が沖縄にさしもどされいくようで、結構ハードな感触、という。。。解釈によるかもだけど、個人的にはそう受け止めました。 午後6:43 · 2020年2月9日

 

 

ということになります。全体のストーリー、シンプルながら鋭さのある雰囲気、室内に複雑にレイヤーされている映像(右と正面に写っているだけですが、かなりの情報量があります)、その示しているメッセージなど、たいへんにインパクトを受けました。

まとめると、重要と思ったのは2つ。一つは、そこで出てくる「衰弱した正義の女神」というイメージです。暴力や正義、あるいは具体的に沖縄の問題を見るときに、しばしば短絡的に暴力を考えがちですが、ここでの作者はそうではなく、暴力の判断を下す存在に焦点を当てています。しかも、本来なら正常に役割を果たすべき存在が、今は病んでいる。あるいは、病者として失調をせまられている、といった方がいいのかもしれません。なぜ今、正義の女神は病んでいるのか。これは、問題を、広く沖縄から東京まで、暴力だけでなく政治まで捉えて、批判するものであろうと思います。もっと言うと、それは批判する視点でもあり、批判そのものでもある。

しかもこのイメージは、様々な問いを投げかけるものになっています。正義の女神が持つ天秤と剣、目を隠す布は、それぞれ具体的に何を示しているのでしょうか。その病は、何をもたらしているのでしょうか。真理、権力、民主主義、法の下の平等、正義、軍隊、外交、戦争・・・これらの多様な問題の関係が絡み合って、観る者にそれらへの問いかけをせまるものである、あるいは、より直截的には現在の日本の状況をそのまま凝縮しようとしたものであるとも言えるでしょう。また端的にこれは、今の社会から感じられる作者の恐怖の表象でもあって、現在の日本の民主主義や立法、行政、法執行(の停止)の状況を、政治的=心理的側面から提示した表現でもある。このイメージからは、そうした一つ一つが充分に重いいくつもの問いかけが投げかけられてきました。

もう一つは、パフォーマンスがもっている力というのでしょうか。実際、そのイメージは、いわゆる露悪的な表現ではなく、むしろ静謐な緊張感の中で、語りとともに変化し、進められていきました。個人的にはパフォーマンスといえばヨーゼフ・ボイスであったり、イヴクラインであったり。あるいはアブラモビッチやアコンチのような、直接的な身体や、あるいは観客との関係性自体を取り出し、巻き込んで破裂させていくようなところを思い浮かべます。そこに、今回のパフォーマンスは、寓話というか、かつて歴史上の演劇などで行われていたような、簡素ながら破壊的な物語をもつアレゴリカルな世界を登場させた。これにも、個人的には大きな衝撃をうけました。そこでは、何かのシンボルを登場させあれこれいじるというのではなくて、もっと大きなメタファーをそのまま人格化させ、さらにそのメタファー自体が動いて物語が形づくられていく。現実の社会からメタファーを取り出しているのだから、そのメタファーを動かしていくと、現実からは外れていくことになります。しかし、そうして現実から外れながら生まれてくるストーリーは、むしろありえるかもしれない物語(←現実)への想像力を働かせるものともなりますし、なにか新しい希望への祈り、のような力を持つでしょう(この点について、花崎さんのパフォーマンスは、複数の自身の映像の並列や、暴力を背景にした世界、アレゴリーという点で、非常にベンヤミン的だったと思います)。それは、問題の上でも、実際に最後まで語られ尽くしたストーリーの上でも、ひじょうに大きな力をもって観客の前にあったと思います。

 

最後に、感想をつけ加えておきます。1つは、作品として、全体がひじょうに抑制された感性で成立していて、相当に激しい政治的主題にもかかわらず、むしろシックで冷ややかな美意識で統一されていたことに、かなり驚きました。これは展示だけなくパフォーマンスもそうで、わずかな身振りや小さな歌声(最終回ではIn other wordsを抱擁しつつ口ずさんでいました)だけで、大きな意味を作り出す手法に、率直に感銘と、ある種の新しさを感じました。

2つ目には、冒頭で述べたように、作者の多様な側面がまとまっていたようにも思え、つまり東京から離れた問題を、パフォーマンスで、政治主題を恐れずに成立させていたと思われました。これは様々の経験がなければなかなか扱いきれない色々な要素を含んでいて、しかもパフォーマンスとして、芸術的な意義もあったことは上に書いたとおりです。主な活動場所が台湾や欧州ということで、あまり見ることのできない作者の作品に、これも率直に驚きました。

その上で3つめとしては、こうして作品を描写し、その意義を分析したとしても、何かモヤっとした、解決されていないものが心に残ります。それは、つまりここで扱われた現実の問題が、まだ残っている。この作品は(これもベンヤミン的ですが)芸術でありながら、現実の政治を扱っていて、観終わった後もなお現実の課題が作品の残余として、とどまっています。その鈍い感触は、けれど作者がパフォーマンスで示したようなある種の希望のイメージとともに、その問いを受け止めて向き合っていくものとして、心に刺さった棘のように、なおも残っています。

 

 

これ急にベンヤミンを挙げてるけど、個人的に理解した範囲で、ベンヤミンは暴力を考えていったら「どうして暴力(軍隊とか処刑とか)は可能なのか」を考えたんですね。で、つまり法律や、法の執行を支える概念(法概念)にたどり着く。法策定、法維持、あと民衆の暴動の正統性など。それが暴力論であると 午後8:09 · 2020年2月2日

 

で、実はそれは、そんなにオリジナルな発想ではないよね。例えば中世の欧州の議論でも、裁判所がどうできたかとか、軍隊が私兵や徴募、常備制に変化していくとか、議論されていて。ほとんど教科書で習うところで。同じ関心ですね。議論じたいは、ルゴフとか、もっと前か、1930年代には充実している。 午後8:13 · 2020年2月2日

 

ただ、それが議論全体の重要なコアであることは間違いなくて。そこを取り出す・たどり着いて、現在の問題として考えるのは、面白いというか重要だなと思いましたね/思いますね。

 

こう書くと、あたかもアカデミックな議論の枠内にあるように思われるかもですけど。実はアカデミックな議論って、分析することしかできないんですよね。そこから先へ行くには、何かの想像力とか、芸術とかになるだろうという。 例えばベンヤミンは、よくメタファーを使うんですよね 午前0:50 · 2020年2月3日

 

分析が終わった先へ、急に天使とかでてきて、メタフォリカルに話を進めていく。寓話的なあり方って、そういうのができるだろうと思う。言いかえるとそれは分析ではない笑。けれど、アートっていうか芸術だからできるやり方ですよね 午前0:52 · 2020年2月3日

 

今ずっと言及している作品は、たぶんそういうメタファーの世界に突入している、ように思えますね。そこは、政治分析では語れないところを、芸術ならではの可能なこととしてやっている とか教科書的に言ってみる。 午前0:55 · 2020年2月3日

 

 

 

AIは電気羊を想像するのか

少し前から、AIとアートの関係みたいのが報じられていて、そのつど検索するのが面倒なので、個人的に必読記事をまとめておきます。

 

まず最も重要と思われるのは、こちら。2016年に「レンブラント(画家の)の新作を、AIが作成した」というニュースがありました。レンブラントは17世紀の画家で、とりわけ薄暗い空気の中の自画像で有名だと思います。イギリスなどでも、神のように扱われています。で、その新作ができてしまった。過去のレンブラントの作品群を分析させて、そこから新作を作り出したと言われています。通称「デジタル・レンブラント」と呼ばれていました。

https://www.theguardian.com/artanddesign/jonathanjonesblog/2016/apr/06/digital-rembrandt-mock-art-fools

 

それについて、こちらの記事は、かなり批判的な考察を寄せています。なぜかというと、「レンブラントは、作品ごとに、新しい創造性を発揮して進歩していた。なので、もし彼の新作が出れば、それは(レンブラントの)既存の作品に似ているはずがない」ということ。

これは、事態の一つの側面を言い当てているように思います。つまり、過去の作品を集積して、その(ありえた)パターンの一つとして、AI新作がある。しかしそれは、レンブラントがもう少し生きていたら描いたであろう作品とは、似ていないのです。あくまで過去のパターンでしかない。

もっと言えば、ここでは(というか、この議論では)、芸術における創造性が問われているわけですね。芸術家の作る新作は、過去の作品の集積の中から導かれるのか。あるいは、何か予期せぬジャンプを伴うのか。いいかえれば、芸術における創造とは、多様な系を生み出す力にあるのか、予期せぬジャンプを生み出す力にあるのか。AIのパターン認識から作られる作品は、いわば前者(名作のシステムを読み取って、作り変えるという点で)というわけでしょう。それに対して、この記事は批判しているわけです。

 

個人的にはこの記事の批判はかなり本質を突いていると思いました。今でも、AI芸術の問題の時は、この記事を再読します。

とはいえ、大事な点はもう一つあります。それは商業の問題というか、売れるか売れないかですね。 つまり、この記事どおりであるなら、AIの作る作品は「芸術」ではないわけです。しかし、何が芸術作品であるか否かを判断するのは、批評家(だけ)ではありません。マーケットというか市場取引で、それが「芸術作品として価値がある」とされれば、むしろそれでオーケーです。

そして、現在に至る過程は、(批評家にとっては)残念ながら、マーケットの力の方が強いようです。AIが作った新作が高値で取引されたというニュースが入ってきたのは2018年です。

https://www.afpbb.com/articles/-/3194763

 こうなると、AIが作る作品は、おそらく「芸術」になりつつあります。それは市場の力によっている。

ここには、奇妙にも(冒頭の記事が指摘していたのとは)ちがう「芸術」の本質が見えるようでもあります。

 

あるいは最近ではもっと新しいタイプの作品も出てきています。それは、AI支援によるリアルタイムパフォーマンスのようなマルチメディア作品です。

ビョークマイクロソフトが、ホテルに設置したインスタレーションのような作品は、AI支援によってそのつど変化していくそうです。こちらは2020年1月27日の記事(つまり3日前です)

https://japan.cnet.com/article/35148347/

そこには、作家がほんの少し顔を出しているようですが、パターンの発展によって作品が生成されているようです。AI「支援」というのが面白いところで、もともとの作品を、リアルタイムで変化させていくのにAIを使っている。こうした作品が「作品」として成立すれば、もっとやってみたいという人たちが出てくるのは、至極当然のように思います。

 

さて、これらの作品は、芸術を、あるいは芸術家の定義を、更新していくのでしょうか。

 

ということで、個人的な関心は、このあたりです。また新しい論点が加わったら、記事を書きます。

ちなみに、最近のニュース。AIダリ。

https://finders.me/articles.php?id=685

 

 

 

 

アジアのノイズ・映像小特集

最近ずっと気になっているアジアのノイズについて、とりあえず映像にまとまっているものを並べてみます。数は多くないですが、ここから検索していくと広がりがありそうです

 

1 Jogja Noise Bombing Festival ジョグジャ・ノイズ・ボンビング

すでに一部で話題のフェスティバル。まずは次のをごらんください、バイクが壁を垂直に走り回っている中でのノイズ演奏です。バイクもノイズか、ノイズとバイクの共演か

https://youtu.be/0Lb0RzUrVRM

 つづいて、同じくジョグジャ・ノイズから。有名になった映像です。インドネシアジョグジャカルタで、公園で公共の電力を勝手に使って(しかも屋外で)全員でノイズをやっている、2013年の映像。このうちの何人かは、今は欧州はじめツアーで引っ張りだこです。

https://youtu.be/W7gmsBHoUKs

 

2 Noise Index ノイズインデックス

台北での小フェスティバル。一度きりのイベントだったようですが、熱気が伝わってきます

https://youtu.be/MiLCiHiiHPM

出演は KAZUMOTO ENDO, TORTURING NURSE, DINO, SPORE SPAWN, DINGCHENCHEN, BERSERK。日本、中国、台湾から、集まっています。台湾には重厚な若手のシーンがあります

 

3 荒音祭 Nowhere Festival

中国の奥地で、年一回、開催されるフェスティバル。ノイズだけでなく、即興や実験音楽、アウトサイドなものも含んでいるようです。ときどき名前は見ますが、まだなかなか日本では知られていることの少ないシーンで、出演者も要チェック。ドキュメント映像がありますので貼っておきます。

出演は

阿科 Ake
拜拜魚 Baibaiyu
丁晨晨 Ding Chenchen
傅秀良 Fu Xiuliang
李劍鴻 Li Jianhong
李楊漾 Azoik (AKA: Li Yangyang)
錢賡 Qian Geng
若潭 ruò tán (Collaboration in distance)
SEX創始祖靈根
盛潔 Sheng Jie
王子衡 Wang Ziheng
楊修 Yang Xiu
周日升 Zhou Risheng

https://youtu.be/YyTd19l-qzU

 

ということで、インドネシア、台湾、中国でした。まだまだフィリピンやネパール、タイなどにも既に名高いノイズの演奏者たちがいます。追って見ていきたいです

 

アジア・ユーラシアMV小特集

 

アジア・ユーラシア地域のミュージックビデオを特集します。ポピュラー少なめ。解説もできないのが多いですが、面白いのもあると思うのでぜひお試しあれ。

 

1 Gabber Modus Operandi - Dosa Besar

晦日に来日もしました。欧州はじめ世界ツアーをしている、今をときめくインドネシア・バリのグループ。ミュージックビデオだと思いますが、地域の伝統行事らしい祭りの映像がひたすら流れています。子供たちがのたうち回るような激しい踊りを見せていますね。とはいえ解説はここが限界です。

https://youtu.be/Gnsjcu6G8E4

 

2 Meuko!Meuko! - 都市念佛法會 Metropolitan Sutra Gathering

台北は最近ノイズを背景に(90年代からアバンギャルド芸術の一部としてノイズがありました)様々な表現が出てきています。その一人。激しいビートの音楽に、台湾の文化的表象が重ねられて独自性が形づくられています。この音楽と映像で、最近は中国やヨーロッパ各地のツアーに登場中。映像はメディアアート集団naxs.corp.

https://youtu.be/Nfo5MYkNK8A

 

3 落差草原 WWWW / Prairie WWWW -【符號學 Semiotics】Conceptual Video

おなじく台北から。かなりフリーキーでトライバルな、オルタナティブ・ロックの作風のバンドです。去年来日しました。個人的には「レッド・クレイオラ・ミーツ・トライブ」という感じでしょうか。サイケの要素もふんだんにあります。

https://youtu.be/nlaTf9-Yoos

 

4雀斑樂團 Freckles 不標準情人 Imperfect Lover ft.Leo王

台湾に偏っていますが、最近は毎月、来日しているリン・イーラーが2018年に出した曲。すでにシティポップをやっていて、この時点で完成しているように思えます。16年にアジアンミーティング・フェスティバルで来日、17年くらいから、欧米の動向も視野にシティポップに取り組んでいたようでした。このバンドはすごく人気があって、たいへん見ごたえのあるライブの模様も貼っておきます

https://youtu.be/J_5n9LXT5DM

雀斑-愛的大逃殺 https://youtu.be/bZx0SJHkr7E

 

5 The Observatory - August Is the Cruellest

同名のバンドが幾つかありますが、シンガポールのバンド。ガムラン+ロックのようなこともやりますが、ここではストレートにソニックユースのその後を想像させるギター主体のオルタナティブロックをやっています。歌は英語で、ロックが現代音楽をも突き抜けて包容力があることを、今一度確認させてくれます。いい曲。

https://youtu.be/k9aCWSAWoaI

 

6 Zagasan shireet tamga (Загасан ширээт тамга) - Эзэн тэнгэр мину

モンゴルのヒップホップです。社会・政治(大文字の政治ではなく、政治体制に翻弄されるところ)・文化まで、多面的に考えられた、しかしビジュアルも大変にインパクトがあり、独自の音楽にまで昇華したものと思います。おすすめ

https://youtu.be/UHGgdPH3lhQ

 

7 Chunyin - 條款 Terms (Official Video)

香港で生まれ、シドニーで育ったというメディアアーティストの音楽作品。ビートミュージックに、同期した映像で、文字(漢字)の塊がうごめいていきます。たいへん魅惑的な作品です

https://youtu.be/lKi8MK996zk

 

 

* 

 

 

 

私的MVベスト10 in 2010s

1. David Bowie - Lazarus

死や死後についての歌のアルバムを、発売直後の自らの死によって完成させた、人生に一度しか作れないコンセプト・アルバム。それはまた、「アルバム」というものが成立しえた2010年代半ばまでに可能なものであっただろう。そうしたいくつもの終わりに取り囲まれたアルバムの一曲。これが発表された3日後に作者の死が公表され、その映像はひたすら歌手の不在だけを示すこととなった。それはdb最後の、究極の死の表現となって、世界に吹き荒れたのであり、これ以上のコンセプト・アルバムを想像することは容易ではないだろう

https://youtu.be/y-JqH1M4Ya8

 

2 Holly Herdon - Eternal

詳しくはわからないがAI支援されていることで知られている曲。映像も明らかに異様で、むしろ知能が歪んでいくようでさえある。普通でない音域のコーラスとビートで構成された(いわゆる微分音を用いているのだろう)、現時点で最先端といえばとりあえずこれが上がるのではないか。2019年。

https://youtu.be/r4sROgbaeOs

 

3 FKA twigs - Pendulum

ミュータントを名乗るアルカがプロデュース。時代を画するような鋭角的な音楽のみでなく、突然、日本の倒錯の美学であったことが終盤に判明して驚く。2015年。

https://youtu.be/O8yix8PZKlw

 

4 Kaneye West - BLKKK SKKKN HEAD

ハードなファッション写真の表現などで知られるニック・ナイトが製作した。明らかに人間でない人影がうごめく映像。それはまたブラック・ライブズ・マターの露悪的な表現でもあって、2010年代前半のアメリカを思い起こさせるだろう。

https://youtu.be/q604eed4ad0

 

5 初音ミクの消失

実際の作曲は2008年だが、正式なアルバムに加えられたのは10年だった。インターネット内で出現したカルチャーの、日本における代表格ではないだろうか。文字をメインに作られたその映像は叙情を誘うが、何度も転載されて、2020年を迎えても消失していない。

https://youtu.be/C6EZ2hCf_wA


6 Ethnic Zorigoo Ft A Cool, Zaya & Frankseal - Tengeriin huch

無数の刀傷を顔に創った男たちや、酒を酌み交わす笑顔とその憂愁などが繰り出されるヒップホップ。きらめくキーボードにパーカッションやスロートボイスなどが組み合わさった、力強く自信に満ちたトラックとともに、アジアでもまず確固とした文化はモンゴルから登場したと思わせた。単に欧米のビートに自国語のリリックを乗せたという以上に、はるかに深く完成されている傑作。これにヘビーメタルも続くだろう。2015年。

https://youtu.be/6RqjgJwsEMo

 

7 M.I.A. - Borders

シリアからの難民がヨーロッパ各地で問題になり、EUの理念の一つのはずだった「国境の移動の自由」までもが動揺した2016年に発表された。現在もシリアの問題は解決していないが、そこになお記念碑的なイメージを打ち出したものだと思う。多くの賛成と、より多くの批判を招いたことでも有名。

https://youtu.be/r-Nw7HbaeWY

 

8 Howie Lee & Teom Chen - 明日不可待

口から金を吐き出す男や、不必要なまでに痙攣している男たち、過剰なネオンライトで飾られて飛来する仏像など、北京のベースミュージックのトップクリエイターによる音楽と映像。何もかも過剰で慌ただしく、待つことができない。リアルとバーチャルが入れ替わり出口のない世界が繰り広げられる2019年作。

https://youtu.be/v4IGn0HOM5E

 

9 地元に帰ろう音頭

00年代にサンプラーをリセットし、サインウェーブだけの演奏でアルス・エレクトロニカ金賞を獲得したSachiko Mは10年代に入ると突如、ソングライティングの才能を開花させ、日本レコード大賞まで獲得してしまった。その歩みは、さらに同時期のプロジェクトFukushima!とも合流して、新しい音頭を作るばかりか振り付けまで行い、ライブでは自ら歌うことさえある。その幾つかの流れが合流した映像。震災以後の中、漂流を余儀なくされる状況の中で、私たちにとってありうる、いくつもの地元を(言いかえれば、どこでも地元になりうるのだというメッセージのような)指ししめすような問題提起の曲でもある。

https://youtu.be/N5Ee9ig8zMs

 

10 勸世阿北ㄉ尚水燒肉粽

おそらくヴェイパーウェイブの聴きすぎでおかしくなってしまったのではないかと思わせる、ただチマキが回転しているだけの映像にチープなトランスが乗っかっている曲。2016年。歌っているのは台湾きっての先鋭的な芸術家である黃大旺(ファン・ダワン)で、歌詞は「すてきなチマキ」と言っているばかりであるそうである。同じテイストでアイドルが歌っているものもあり(黃大旺とデュオしているコンサート映像もあり)、あまりに早すぎて時代がついてきていない感じがすごい。台湾の現代文化の得体の知れなさの一つがここにある。

https://youtu.be/v84wkKzhd3E

 

 

かつては、壁際の大きめのモニターに延々とミュージックビデオが映し出されているカフェやバーがあったかもしれないが、今はもう見ない(スポーツバーに取って代わっているのだろう)。だから最近のミュージックビデオの役割は、宣伝か、マイナーな領域での自己表現か、(視聴者にとって)情報を探すためのタグのようなものか、そうしたところだろう。

1は、そうした中で、社会的影響を含めて、映像が力を持った例としてあげた。英語圏では1ヶ月近く「喪失感」が溢れていたと思うが、個人的にはその喪失感までが作者の作り出した作品であって、この映像はそのための小道具であり、十全に機能していたと思う。2から4は、知的に退廃しているような欧米の表現から選んだ。5を通過して、それ以降は、ヨーロッパアメリカの範囲をとび越えて出てきている問題や表現がほとんど。これらは面白い。

 

番外編

John Cale - Close Watch

かつての相方ルー・リードが没し、一人でベルベット・アンダーグラウンド再演を取り仕切るなどしていたジョンケールの新作ミュージックビデオ。それまでのロックをやめ、ビート主体のヘビーなベースミュージックになっている。1942年生まれのケールは、1960年代からの現代音楽やロックを経て、齢70をすぎて、今ふたたび新しい音楽に挑戦している。ビートと歌をコーラスでつないでいるのだが、このコーラスの音程がジョンケールらしい。

https://youtu.be/Trotjp3yCPw

 

 

 

 

 

 

AMF2019

そういえば、AMF2019について書いていなかったので、メモ代わりに書いておきたいと思います。今年の7月初旬に東京で開催され、週末の二日間の公演に行きました。すでに数年間、アジアン・ミーティングを見てきていますが、アジアの演奏家たち、伝統楽器を使う人たち、という以上に、さいきんでは新しい音楽のシーンや、未知未踏の試みが行われている場所としてのアジア各地域からの音楽家たちが集まるイベントとして、たいへん楽しみで、かつ注目しています。(ちなみに去年は台北で、一昨年は、日本で、東京というよりも全国で、札幌国際芸術祭にあわせるように企画ツアーでした) 

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ゲーテ・インスティチュートでの公演後の、シェリル・チャンのセッティング。ミキサーに植物が刺さっている

とはいえ、個人的にはあまり客観的な感想はもてないところがあり。何より台北からシェリル・チャンが来て、それについては紹介のブログも書きましたし、多少は貢献したかなと思うところもありますが、とにかく彼女が忙しくて気が気でなく、来日中も謎の多忙さで倒れないかと心配するほどの中だったので、そのことばかりが頭にあります(実際、7月下旬から台北で2週間近くアーティストを共同生活させて合作するワークショップに参加し、8月末からはドイツやイギリスをめぐる一ヶ月近くの公演ツアーに進んでいきます。どちらもコレクティブlolololとしてで、コンセプトに必要な膨大な書籍と図版を用意する必要に追われていたようです。他にも仕事などもあり、早朝に起きてやっていたとか)。

じつはメッセンジャーで連絡も取っていて、来日中も台北のシャと三人で、フューチャータオ打ち上げ一周年の歓談などもしていたのですが、これまた、AMFのキュレーターが録音作業の拘束で逃さず。結局、シェリルさんは初来日で、秋葉原も新宿もお台場も見ないまま、谷中の墓地と渋谷のドミューンだけ見て、東京から帰っていったようです。もうちょっと自由時間があっても良かったのに・・・とか、とにかく気が気でないまま時間が過ぎて行きました。普通は写真も撮るのでしょうけど、実際は公演最終日に2枚しか撮らず。かなり珍しい体験でした。なので、先立つ感想は、無事に終わって何よりですという感じでしょうか。良かったよかった

ともあれ、主観的な話はさておいて。実際に見た公演も素晴らしいものが多かったように思います。

まず参加メンバーが、大変豪華でした。セニャワは有名だから別として、シェリルさんもコレクティブを主宰していますが、他の参加者も多くが独自のユニットやコレクティブを運営したり、あるいは独自の楽器を操るなど、どれも特筆に値します。これまで調べたところをまとめてみましょう。

 

まず、インドから、セルジュークR。鋭い音響的なサックス奏者で、ノイズの中でも適応できるその演奏の切れ味は度肝を抜かれましたが、それだけではなく、実際に場所も運営しています。カヌールにある、フォープレイ(Forplay)という場所を運営していて、フリージャズから何から何まで、ごった煮の即興イベントをやっています。どちらもfbにページがあります。

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fbから。フォープレイの風景

バンコクから、ダンストラックとノイズを操るピスタクンは、ネイバーズ・コレクティブ(Neighbours Collective)という、音楽だけでなく演劇や体術までジャンル混淆のコレクティブの中心人物で、このコレクティブはアメリカやジョグジャカルタにも進出。また、企画も運営しています。フェイスブックの記録を見ると、このネイバーズ・コレクティブはある意味でアジアのハブで、セニャワのメンバーやセルジューク、昨年のAMF台北に参加したMeuko!Meuko!などと交流、イベントをしています。日本からだと、現在バンコク在住の篠田千明さん(快快)が交流があるようです(繰り返しですがジャンルは混淆です)。バンコクは現在、ヨーロッパとアジア各地域の人が集まる(特に現代アートの)刺激的な場所になっていて、そこで際立つ人物の1人という具合でしょうか

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ネイバーズ・コレクティブがボストンに出店した時の写真。fbのページから

またシンガポールからダーマ・シャーン、現在フェスのPlayfreelyでもオーガナイズで活躍しているバンド、オブザーバトリーにいたこともある変則ギタリストで、テーブルトップというか膝の上にギターを横にして(ラップトップ?)長い櫛のようなものをいくつも刺した、かなり目に付くプリペアド・ギターを(主に弓弾きで)演奏します。金属がきしむような音響が得意なようですが、凄腕のギタリストでバンドを統御できる力がある、才能ある音楽家というべきでしょう。

 

そしてベトナムハノイからング・トラ・ミィ。実は去年の台北でのAMFにも出演して大友さんとの2人で共演が強く印象にある、伝統楽器だけど現代的な即興もする女性の奏者です。楽器はなんと弦が一本しかない琴のようなもので、弾いたりこすったりして、他の楽器と遜色ありません。しかし、何より強烈なのはその声で、鳥獣の叫びかのような甲高く巨大な声を出します。これが現代的なインプロユニットの中では強烈に機能して、一気にハードコアパンクのような大騒ぎを生み出すことが可能。アカデミックにも、ポップやパンクの志向にも耐える音楽性と力を持っています。やはり要チェックです。

というメンバーを中心に、公演が行われました。

感想については冒頭に書いたように気が気でない感じだったので正直あんまり覚えていませんが、初日のドミューンの映像を見て、成功をすでに確信したようなことを記憶しています。全員が猛者でしたし、もちろんシェリル・チャンも環境音とノイズできちんと立ち位置を見せていました。ここでかなり一安心したのも事実で、次への期待が高まりました。

 

金曜日の公演は、やはり気が気でなく、入り口であったシェリルさんはすでに体力が削られていてすごい顔をしていましたし、会場の二階奥では大友さんが寝ているし(あえて声をかけようと思いましたが、それさえ出来ないほどの寝方で)、おまけに観客もたくさんいて会場は立ち見で満杯でした。

内容は、ノイズがいくつかのジャンルの間の潤滑油のように溶け込んで、演奏者各人が自由に自らの奏法を発揮できるような、そうした場になっていたように思います。インプロ的な演奏だけだと、なかなかテクノやヒップホップは入り込みにくいかもしれませんが、ノイズが鳴っているとそれを背景に、あるいは踏み台にして、色々なジャンルの人が参加できる。これは、去年の台北でも見られたところですが、そうしたところで、弱音から獰猛な響きの音楽までがそこで生まれていました。会場自体も素晴らしく、大変に感激したことを覚えています。(この日はシェリルチャンは心音も使っていて、出音もさりながらセッティング自体も良かったように思います)

 

土曜日は、ゲーテ・インスティチュートで。ここでは昨日はノイズに埋もれがちだった器楽とくにセルジュークやミイの、鋭角的かつ攻撃的できりもみをしていくような演奏が際立ったと思います。こんな人いるんだ、という驚きは一瞬で、果てしない競演を楽しみました。全体演奏のパートでは、正直やや混沌が深まり、爆音で暴走していく人たちが暴れまわっていて、ちょっと解放されすぎか、もしくは意気込みがやや過ぎて暴走しているのかなと思ったところもあります。終盤、石橋英子さんのピアノの前にいたのですが、ほぼ全く聞こえない中で弾き続けた姿に(終演後に聞いたところ、本人も聞こえなかったようです)逆に感銘を受けました。集団パートで暴走してしまうのは、実はこれも去年の台北でも起こったことで(初日がカオスだったと聞いています)、二日目の公演ではチーワイ氏が、なんとギターを弾かずに会場をひたすら歩き回るというパフォーマンスをしていたことを、ちょっと思い出しました(ちなみにこの台北二日目の公演は大変素晴らしかったです。)。そういえば、この今回のAMFで、FMN石橋さんとも結構頻繁にお話しするようになったりして、楽しかったです。

など。とはいえ、各局面ごとには、どれも肝を潰されるような素晴らしい瞬間があり、大変貴重な機会だったと思います。こうした、伝統的な美学を現代的な感性でブーストしたような演奏家たち、アジアの演奏家たちの共演を、また見てみたいです。

 

関連リンク

アジアン・ミーティング・フェスティバル2019ホームページ

http://asianmusic-network.com/archive/2019/05/amf-2019.html

北京ノーウェーブ散策

前回のブログ記事のあと、斎藤聡さんの紹介で、火曜日に北京からの二人とお昼を一緒にしました。若干、北京のインディペンデント/アンダーグラウンドなシーンの話もしたので、メモ代わりに。

待ち合わせは神保町の「いもや」でした。11時半前で、行く気満々だったのですが、入り口には、本日休業の張り紙が。「はちまき」に移動することになりました。コンもウェンボーも、すでに何度も「いもや」に来たことがあって、ファンだそうです。

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テーブル席に着席。僕だけ天丼で、3人は天ぷら定食でした。4人で和やかに、即興と作曲の現場の話などを。ウェンボーは、即興と作曲の分かれ目がないフタリの音楽に、とても興味がある、と言っていました。

 

そのあと、喫茶店に移動。なんだか色んな話をしましたが、中国にアンダーグラウンド流通で、阿部薫についての間章の文章の、翻訳(書籍)があるとのこと。ザオコンはこれを持っていて、それでカオル・アベ・ノーフューチャーのバンド名になっていったようです。日本勢は驚き。

あと、北京で、年一回ぐらい、地下通路で勝手にライブをするという企画をやっているようです。大友さんも参加したらしい。これも驚き。

彼らの来歴についてもちょこちょこ聞きました。ウェンボーは2009年くらいから、バンドとコンサート企画をやっているようです。影響を受けたのは、クラウトロック(カンだと言っていました)、マークEスミス(ザ・フォール。ポストパンクと言われる音楽です)、それにブラックフラッグ(ハードコアパンクの初期のバンドで有名)。なるほど、あとで聞き直しましたが、マークEスミスの影響は、カオルアベノーフューチャーにも反映しているように思います。インターネットで、ダウンロードしまくったと言っていて、情熱的に語っていました。

それで、最初は演奏場所のオーナーに言われてコンサート企画を始め、自分のバンドもやったりしたらしいのですが、場所が二度、閉鎖されるというのを経験して、コンサート企画をするのに疲れたらしいです。それで、その時間と労力をレーベルに向けて始めたのが、ズーミン・ナイトだということ。2014−15年あたりですね。なので、ズーミン・ナイト自体は2009年からあると言っていました。なるほどと。

 

感想ですが、カンの再評価は、世界的に10年前ぐらいから始まっていて、特にここ数年顕著なような気がしますが、つまりその動向の中に、彼らは普通にいるわけですね。ポストパンクなども、最近は言葉自体をあちこちで見かけるようになりました。2009年にそれに反応するのはかなり鋭いセンスかもしれませんが、改めてわかるのは、対話不可能などではなくて、むしろ共通言語を持っているということ。

一方で、ハードコアに熱中したり、その好みがかなりロック寄りであることは、話していてちょっと驚きでした。彼らを見たのは、最初はフタリで、作曲やサウンドアート寄りの即興だったので、静寂とか現代音楽が好みと思っていましたが、どうもだいぶ違うようです。作曲作品でもしばしば荒々しい響きがあるのは、そうした志向もあるのかもしれません。彼らの中では、もっとロック寄りの音楽として響いているのかも、と少し思いました。

中国での音楽流通についても話が出ましたが、CDはライセンス制で事前にチェックがあるようです。ズーミンナイトはカセットレーベルなんですね。あと、歌詞がないものや、政治的でなくとも理解のしがたいものは「理解できない」という判断がされるそうです。この辺は、ちょっとしたジョークで笑いました。

 

お茶をしたあとは、斎藤さんと別れて、僕は彼らの散歩に付いて行きました。まずコンが、北野武のポスターが欲しいというので、古本屋街の専門店で発掘。ポスターは友人へのお土産だということでしたが、探し終わったあと今度は「伊丹十三のも」というのでお店の人にお願いして、パンフレットを発掘。じつは二人は、伊丹十三の大ファンらしく、店を出たあと早速に袋を破り、取り出して2人で興奮した声をあげていました。

そのあとは、秋葉原までのんびり散歩。東京に来たら必ずハードオフに行くというので、付いてきました。店舗前で、コンだけまんだらけに突入していっていて、とても楽しそうです(収穫は、2日前に行った中野の方がすごかったと言っていました)。ハードオフであれこれ物色しているうちに、なんとなくお時間となりました。

と言う具合です。北京に来なよ、と言われました。ちょっと考えてみようかな、という感じです。