ノイズだらけの海を歩こう:2020年3月から7月の音楽の話(③)

 

 

ノイズとはなにか、という問いは、常に面白い。なぜなら、答えはいくつもあるのに、どれが正しい正解であるのかはわからないという類の問いだからだ。

これは、とりあえず辞書を引いてみればわかる。まず出てくるのは音の事柄(雑音)であるが、続けて多領域にわたってその単語が使われていることがわかってくる。たとえば機械工学では、動作を妨げる余計な電気信号のことである。また社会科学系の領野では、人の行動を何らかの形で妨害する阻害要因のことを指す。天文学上の観測では、データ採取においてまぎれこむ余計な電波のことだ。

さらに、かならずしも悪い意味としてだけではないこともわかる。統計学の分野でホワイトノイズとは、ある持続性(定常性)をもつ(乱数による)バラツキのある状態のことを指す、分析概念である。また、生物学においてノイズとは、遺伝子発現のことを指し、むしろ生命の発達や進歩・進化や多様性の出現において欠かすことのできない重要なものとして、高く位置づけられている。そしてこの全てが「ノイズ」という言葉の指す意味でありうるのだ。

 

いやいや、そんなことを言って。まず何よりも「雑音」のことなのだから、それでいいじゃないか、というかもしれない。耳ざわりでうるさい音がノイズなんだよ。

ところが、ここでは問題が一つある。それは、雑音を「気持ちよく」聴いてしまうこともあるということだ。例えば、ジミ・ヘンドリックス。あのフィードバックまみれのギターのブルージーなノイズは多くの聴衆を興奮させ、レコードや記録映像で見聞きしても、ちょっとした快楽を味わわせてくれる。むしろ逆に、とても綺麗で可愛らしいピアノ曲だって、「うるさく」感じられることは皆、知っているはずだ。部屋でのんびりくつろいでいる時に、近所の窓からモーツアルトピアノ曲を何度も何度も繰り返し大音量で練習しているところが聞こえてきたら、いい加減ちょっとうるさいなあ、と思ってしまうことは、誰にでもあるだろう。ここでは、突然ノイズの概念が牙をむいて、つまりは、あなたが「うるさくない」「きれいだ」と思っているものも、実は耳ざわりでうるさいノイズなんですよ、と言い始めてくる。ノイズは領域拡大して、音楽すべてを呑み込んでしまうのだ。

いやいや、この世の中には「ノイズ・ミュージック」なるものがあって、その歴史的定義はできるだろう、という意見もあるだろう。ところがここでは、歴史的な定義というのは常に抜け穴があって、全てをすくい取ったと思うと、あちこちから別のものが出現する。

例えば、ノイズは未来派ルイージ・ロッソロが提唱した騒音芸術に端を発し、最初の楽器はイントナルモーリ、ロックの電子楽器を経て、1970−80年代に世界各地でホワイトハウスやスロッピング・グリッスルなどを代表に花開いた、パフォーマンスと電子装置を用いた音楽ジャンルなんだ、ということはできる。ただ、そうすると今度は大音量のシンセを使った音楽はどうなるのか、現代音楽はどうなるのか、自作楽器を使う民族音楽はどうなのか、といった問いがたちまち広がるだろう。

こうした話をしている時のオチはたいてい決まっていて、「音楽をジャンルで定義することほどバカバカしいものはない」ということになる。おそらくそれは正解なのだろうけど、けっきょく「ノイズ」は、いくつもの答えがありながらも、どれが正解なのかわからないままになってしまうというわけだ。

 

こうした「ノイズ」の広がりかた、答えが沢山あるけれど、どれも正解であるようなところに、個人的には惹かれている。もちろん聴覚を刺激する音も大好きだけれど、それだけでなく、ノイズと一言くちばしると、あっというまにいくつものジャンルや領域をまたいでいくことができるのだ。しかも、上にあげた生物学的な定義などは、議論をするさいになかなか面白い視角を与えてくれる。もしかしたら私たちはノイズなしには生きていけないかもしれないのだ。

いくつかの国と地域を横断する中で、いろいろな領域の人と会ったり議論をしてきたりした。その結果、例えば台北では、(美術)作家で、かつ著述家としての扱いをうけ、ドイツでは、作曲家でサウンド・アーティストと呼ばれてきた。けれど自己紹介するときは一貫して、自分はノイズ・ミュージシャンだ、といってきたのは、こうした《ノイズ》という言葉の融通無碍(むげ)であるところ、いくつかの領域をさっとまたげるところで、しかも、言語も国や問わずにそうした議論ができるということもあった。

 

こうした「ノイズ」の中で、最近とりわけ面白く感じられるのは、雑音の問題、とくに録音における雑音の問題だ。ある音楽が録音される、たぶん何かが演奏されているのだろう。けれどそこに「ノイズ」が混じっている。それをどのように扱うかということだ。

例えば、人の声。うっかり録音スタッフの合図が混じってしまったり、演奏者たちの声や息が混じってしまうかもしれない。それに、ライブの場合は観衆や聴衆たちの声。ちょっとしたかけ声や、興奮してしまった観客の絶叫とか、ゆったりした会場で会話していた観客の笑い声や、グラスを落として割ってしまった音なども入る。

それに、自然の環境の音もある。空調の音や、近くを電車や地下鉄が走っていればその轟音、車のクラクション、途中から入ってきた観客が開けた扉の向こうからの風の音、雨の音、雷、木のざわめき、虫や鳥のさえずりなど。案外と自然の環境の音は、録音に紛れてはいってくる。

これらはきっとノイズと呼ばれるだろう。そして、綺麗にパッケージされた音楽の場合、それらは丁寧に除去されるたぐいのものだ。だとすれば、ノイズ好きとしてはそれらは見逃せない。とくに、この中の最後のものが極めて興味深かった。つまり環境の音、環境のだすノイズである。

 

実験音楽や、現代音楽において、ここ10年で、最も多くの議論と進展が見られているものの一つは、間違いなくこうした環境音を用いた作曲であろうと思われる。その名称は様々で、「ファウンドサウンド(found sound)」と呼ばれることもあれば、「フィールド・レコーディング」や「サウンド・スケープ」と呼ばれることもある。さかのぼれば1950−60年代の現代音楽に確たる起源が見られ、鉄道などの走行音を録音・編集して楽曲として仕上げた具体音楽のピエール・シェフェールや、オーケストラに環境録音を混ぜ込んだヴァレーズ、様々な自然の音をテクストに沿って配置し、朗読なども合わせたケージ、物語に沿って環境音だけで構成したリュック・フェラーリの「ほとんど何もない」にまでたどり着く。60年代末にはカナダの作曲家レイモンド・マリー・シェーファー(R. M. Schafer)が「サウンド・スケープ(sound scape)」の概念を提出し、都市やその周辺地域の環境全体を、録音と編集によって再構成するという、巨大な創作の作業として開発がなされた。同じくカナダのヒルデガルド・ウェスターカンプ(Hildegard Westerkamp)はそれをさらに発展させ、「サウンド・ウォーク」として、ある地域を実際に歩きながら音を採集したり、ドラマチックな環境の展開として経路を「作曲」するなど、地理空間上の主体的経験を与えうるものとして環境音にもとづく創作を行っている。

こうした、ある地域の音をめぐる議論は、さらに2000年代から2010年代にかけて、より急速に進んだ。スティーブン・フェルド(S. Feld)らによる、その地域の音をめぐる営みの総体を文化的に検討する「アコーステモロジー(acoustemology)」が、いわゆる文化研究の一環としてカルチュラル・スタディーズのコースで行われ、多数の学術論文が執筆されている。またそれに伴う実作として、サウンド・アートの領域においても録音した環境音や、あるいは野外のインスタレーションで積極的な自然の音を利用する試みが見られており、これらは洋の東西を問わず、世界中で進んでいる。

また、並行して録音技術の側からのアプローチもあり、水中でにごりなく録音できるマイク(ハイドロフォン)の制作や、各種センサーなどの取り組みも行われているし、BBCの録音技術者であったクリス・ワトソン(Chris Watson)らは虎やゾウなどの接近の困難な動物たちの鳴き声を、そうした精緻な機材で録音する試みを作品として提出している。

 

創作面でも、こうした動向と並行して、多くの環境音を用いた作品が作られた。特に現代音楽との境界領域である即興や実験音楽の分野では、野外演奏の様子を、流れ込んでくる自然の音を除外せずにそのまま録音するものも見られたし、そうした自然の音との「即興」を行う人たちも見られた。

一方、現代音楽の領域では、録音や加工なども多く見られている。とりわけ注目されるのはアメリカの作曲家マイケル・ピサロ(Michael Pisaro)で、積極的に自然環境音を音像として楽曲に取り込んだ。なだらかなピアノに各種の環境音をコラージュした作品や、毎日10分間、都市の同じ場所での環境録音を積み重ねたばかりの「透明な都市(トランスペアレント・シティ)」、繊細なギター曲を、演奏した場所の録音をコラージュして音のドキュメントとして作り上げた曲など、コンセプチュアルな面から叙情的な音風景まで、多様な試みを繰り広げた。

これらでは、自然環境の音はもはや単なるノイズとしてではなく、拾い上げられ、聞き届けられるべき音の要素の一つとなっている。今や、音の世界はそうした広大な環境にまで広がっているのだ。

 

 

さて、と、ここでも再び考える機会があった。コロナ禍でのドイツ現代音楽グループとの交流の中で、こうした作品を一つ作ってみようというアイデアがあった。環境音を含むいくつか音を持ち寄って、一つの作品をつくる、という試みである。そうして作ったのが『Tele-Vision』という映像作品だった。

 

ここでは、幾つかのことが考えられている。ひとつには、コロナ禍の状況のなかで、たやすくは録音すべき場所まで行けないということだった。多少は遠くへ出かけてもいいかもしれないが、適切な場所を求めて各地を散策したり、山や海へと繰り出すのは、やや憚られた。環境音を録音しようというのに、環境にまで行くことができないのだ。これは日本だけなく、ドイツもまた、強力なロックダウンのために同様に困難で、せいぜい近所を散歩する程度のことしかできない。

これについては、インターネットの中に答えを求めた。より正確には、インターネットの中に置かれている自然環境から、その音を取り出して再構成したのだ。

これは、前回にふれたマイケル・ウルフの作品にヒントを得ている。ウルフの作品は①ストリートビューの中にある事故や動物たちを取り出し、②その画面をカメラで撮影して、自身の作品とした。つまり、インターネット内部に保存されている自然・都市環境をひとつの「環境」として見出し、さらにそれに何らかの加工をすることで作品としたわけだ。

ここでは、それに習って、インターネット内のあちこちに散らばっている自然環境を採集した。まずYouTubeの中にある観光の際の景色などを探して、それをスマホのカメラで撮影し、さらにスピードや色調などを操作して、独自の形に作り変えた。環境音についても、そうした音を再録音するか、もしくはサウンド・エフェクトのアーカイブとしてあちこちに公開されている録音を取り出し、やはり変形操作を加えて、別の形に作り直す。いわば、ネット内の情報をそのまま「環境」とみなして、そこからサウンドスケープを再構成していったわけだ。

 

テーマは、海とした。インターネットの中にある環境としては、実際には都市の風景がたくさんあったが、以前の「Tele-Path」の空と同じで、世界中をめぐり一つにつないでいるものとしての海が、まず思い浮かんだ。そのために地中海やアフリカ、アジアの海の録音を集め、映像もそこを歩く人たちのアーカイブを撮影している。

もう一つ、完成間近になって付け加えたのは、足音だった。コラボするドンゾーさんからは、コラージュした波の音やカモメの音、電子空間であることを示す電子音や低周波などに合わせて、それに反応するようなヴァイオリンの演奏が送られてきた。それらをさらにコラージュしながら、こうした(ほとんどフィクショナルな、コラージュだらけの)風景に、さらにそこを行く人の音を足そうと思った。それは、どこまでもいっても海しかないような情報の世界を歩く人の姿でもあるし、ベケットやバラードが描いた危機的終末を歩くことで過ごす人の姿でもあるかもしれない。何より、通常のフィールド・レコーディングでは排除されてしまう足音を、わざと意図的に付け加えてみようと思った。いわば、それはノイズだからだ。情報の海の中に、ノイズとしての人の歩みの軌跡を描いてみる。

それに幾つかの文字を追加して、そうして「Tele-Vision」は完成した。

 

 

 

2020年の秋と冬

ひと夏がすぎた。3月にネット経由の即興をしていたグループからは、独立した企画として、アルス・エレクトロニカ音楽祭で、映像と音の集団即興のパフォーマンスが行われた。3月には雑な図形楽譜と指示だけだったものが、ここでは動くグラフィック・スコアと、声や身振りまでを交えたインタラクティブなページェントのようになっていた。

最初につくった「Tele-Path」は、当初に構想していた爆音の高周波ノイズを復元した新バージョンを作成し、それは音楽雑誌「Wire」のミックス・リストに取り上げられた。

それらに比べると、どちらかといえば2010年代の問題への宿題のような性格をもつ「Tele-Vision」は、その創作過程からの議論を進め、秋から冬にかけて、環境音を中心としたサウンドスタディーズのセミナーでの討議へと発展していった。

そのそれぞれが、小さな成果だが、ささやかながら楽しい結末を見ることになった。その議論はまだ続いている。

 

これらはふりかえれば、インターネットの世界に、はじめて正面から向き合うことになった一つの過程なのだと思う。そこには、大きな不自由と、新たな世界と、開発中の方法論と、そこを行き交う人の営為があって、そうした落差や齟齬や距離や感触に付き合うことでもあった。

もちろん、新しい芸術家も出てきている。とりわけ冬から春にかけては、ネット上でのコミュニケーションを介して、コンピューター上でリアルタイムの曲生成をおこなうライブ・コーディングのパフォーマンスが登場し、ゆっくりとではあるが幾つかのフェスティバルで演奏を開始した。ネット内のレイテンシーやフィードバックなどを飛び越えて相互交流しながらパフォーマンスを行うその様子はいたく刺激的なものだ。そうした新しい方法も、また生まれてくるだろう。

コロナ禍で、日常は止まり、世界はひどく小さくなったようだった。そこに現れた天使都市が暴走したかのような、極端なネット交流の増加と、それに反するような医療の問題は今も世界中で起きている。残念ながら私たちは今もまだ天使ではなく、天使のなりそこないとして情報と現実の両方をさまよいながら、あてどもなくその中を歩き続けている。そうした解決されない、答えのないノイズのようなこの世界の足音を聴き取り、あるいは新たに生成する試みは、まだ当分のあいだは必要とされるだろう。ノイズなしに私たちは生きていくことができないかもしれないのだから。

 

 

 

 

 

不完全な天使たちはいつも遅刻してやってくる:2020年3月4月の音楽の話②

 

インターネット・アートの代表的な作品の一つに、マイケル・ウルフ(Michael Wolf)の『A Series of Unfortunate Events』(不幸な出来事シリーズ、2010年)』というものがある。グーグル・ストリートビューのなかに映り込んだ、さまざまな不思議な場面(複数人が路上に寝ていたり、盗難事件に及ぼうとしていたり、車が炎上していたりする)を撮影した作品である。これらは画面をキャプチャするのではなくカメラで撮影されており(ウルフは写真家で、国際的な写真コンテストにこの作品を出して話題をさらった)、インターネットをいわば客体的な、ものとして扱っているところから、ポスト・インターネット・アートの一つともされる。

中でも個人的に気に入っているのは、一羽の鳥が、まっすぐにこちらを向いて飛んでいるところである。このシリーズには鳩や犬といった動物たちが画面内で暴れている画像も多く含まれているが、この鳥(カモメだろうか)はむしろ大きく取り上げられ、焦点もピタリとあって、こちらに飛んでくる。残念なことにおそらく数秒後には鳥はカメラに直撃して倒れているのだろうが、まさにその寸前の、意気揚々と滑空する姿がそのまま収められ/その時間で停止しているわけだ。そこには、ちょっとどきどきするスリルと高揚感がともなっている。

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『A Series of Unfortunate Events』(2010)の一枚

この作品は、「グーグルによって解体された時間と空間」を収めようとしたものであるという。いいかえれば、インターネット内にまるで現実であるかのようにおさめられている地図が、実際には現実を固定・解体・再編集したものであることを示しているということになるだろう。もっといいかえれば、これらは、映り込んでしまったバグであって、それを写真に収めることで、むしろそうしたバグを楽しんでみようとする意気が感じられる。

こうした、インターネットと現実の間のバグを、作品として取り込んだり、取り上げたりしている作品は、他にも多くある。例えば日本でも活躍しているエキソニモの作品のいくつかは、ネット内の座標をそのままキャンバスに写してピン留めしたりするものなど、ネット内の空間を現実に持ってきた時のズレが扱われている。

インターネット・アートを体験することは、こうしたネット内にある空間と、現実の空間の落差を楽しむことでもある。2010年代にはインターネットで、まるで縦横無尽に、無時間的にコミュニケーションが可能になる一方で、そこに潜むバグと向き合い、現実とは違う世界との接触体験を、いわば異化のようにして楽しむアートが出てきていた。それはまた、インターネットの世界を、なめらかな情報世界としてではなく、別の仕方で楽しむということなのだろう。

 

そして、コロナ禍でネットの交流の世界に踏み入れた時、さっそくそうした事柄に直面した。それは、レイテンシー(遅延)ないしタイムラグの問題である。こうした事柄についてはだいぶ一般化されてきているけれど、少し触れておこう。

コロナ禍で、ドイツの現代音楽グループに足を踏み入れた。インターネットを通じてである。私たちは、すでに3月には始まっていた北京の音楽家たちの活動をにらみながら、自分たちもネットで活動をしようと考えていた。ドイツも日本も、ロックダウンと自粛で1日の大半は家にいることになるのだから、何かしようというわけだ。グループはパジャマオペラと題されて、この時はまだズームが広まっておらず、スカイプで活動を進めることとした。

実際の主要メンバーは5人か6人。それぞれが作品を持ち寄って、何かしようということになった。いわばネット越しの合奏である。出自は欧州やアジアで、持っている技術もばらばら。全員が、作曲作品だけでなく、即興にも関心を持っていて、なかなか面白いことになりそうだった。とにかく、何かやらねばという気運だけはあった。

 

そこで待っていたのが、レイテンシーの問題だった。スカイプなので、音質の問題などは致し方なかったが、こちらは少し考える必要があった。

レイテンシーとは、通信上の遅延、あるいはタイムラグのことだ。これは通信において、ほぼ不可避である。どんなに高速であっても、実際は、物質的に情報は伝達されているので、地球上を周回するあいだの時間が必要になる。また、送られた情報を端末が処理するまでの時間もかかるだろう。これは物理的な原理なので、どうしても避けられず、送り手が送信してから受け手が情報を受け取るまでに、ほんのわずかな遅れが生じるのである。

こうした遅延は、普通のコミュニケーションの際にはほとんど気にならない(どうせ距離があるしメディアを通しているのだから仕方ない、という意識が働いているのだと思うが、リモート会議をしている時に自分の声が返ってくるまでのスパンは、ごく一般に感じられるものだろうと思う)。

しかし、音楽では大事だ。これは、リズムに関わる。音楽の場合、音程の上下や、音の強さ、長さなど共に、リズムは重要な要素だ。テンポと音符によって、どのタイミングで鳴らすかはそれぞれ異なるとしても、ある一定のリズムをとったり、集団でリズムを鳴らしたりすることはとても重要で、音楽の魅力や快楽の一つでさえある。裏を返せば、ほんの少しでもリズムがずれると、それは違和感や、プロの目では醜さに変わるだろう。

おまけに、案外と音楽のリズムは細かい。実際、口で「あ」というだけで、その時間は1秒をかなり細く割ったものであることが分かると思う。短い音などになれば0.1秒未満の長さになり、その、ほんのわずかなずれが音楽を台無しにしてしまう。

そして、インターネット上のレイテンシーは、この許容範囲を超えるレベルで発生する。ごく普通に0.5から1秒の遅延は起こりうるし、互いに会議ソフトでやりとりする場合は3秒から4秒ちかくの遅れが生じる。そうすると、ギターのフレーズと、バスドラムの気持ちいい調和は、ずれてしまう。サックスの高速フレーズがトランペットと合わせて疾走しようとしても、互い違いになってしまう。意図した形でギグができることは、かなり困難なのだった。

インターネットで世界中が繋がっても、そこにはなおも物理的な距離が作用する。前回に書いたように、私たちの通信技術が天使を目指しているとすれば、やはり私たちは天使のなりそこないであって、その歌声はテレパシーではなくて、物理の壁を超えることはできないのだ。

 

せっかく面子が揃って、舞台が揃っても、演奏ができない。どれほどのテクニックや音楽知識があっても、遠隔の世界は、また別世界なのだ。ふたたび、何もかもが白紙に還っていくような状況に迫られた。

ただし、今回は、これまでの知識を動員して、手がかりを見つけた。互いがずれたままに共存できるような作曲方法はないのだろうか。リズムがぶつかり合って登りつめていくような音楽とは違うモデルはないだろうか。いや、そうした作曲家はすでにいる。

 

ジョン・ケージは、『4分33秒』で知られるが、実際はそれ以外にもたくさんの楽曲を作っている音楽家である。そもそもはナチスユダヤ迫害を避けてアメリカに亡命してきたシェーンベルクを師として、作曲を学んでいたのであり、その意味では正統的な音楽の学習をしている。やがて開花する、すべての音程・強度・長短を八卦で確定する「チャンス・オペレーション」も、師が開発した十二音技法を過激化したものに見えなくもない(ただし師が丁寧に和声をつけていたのに対し、和声については異なる感覚を持っていたように思われる)。ケージはこの卦によってすべての単位を策定するやり方を終生手放しておらず、4分33秒の異様な形式も、実際にはそうした極端な決定法から出てきたものの一つのように思われる。

そのケージが1980年代から90年代に集中的に創作していたものに、「ナンバー・ピース」というものがある。「ナンバー」とは、何人で楽器を演奏するかの数が示されたもので、例えば2人で演奏する曲の4番目の作品は「2−4」という表記がされるシリーズだった。これで「1」から「108」までを作っている。

この曲群の特徴は、その中身が、小さなフレーズである「ブラケット」に分けられていて、しかもどのタイミングでフレーズを演奏するかが、演奏者にゆだねられていることだった。厳密には「◯秒から◯秒の間に、このフレーズを開始すること」という決まりごとがあるのだが、それでもそれぞれのフレーズを一斉に、合わせて鳴らすのではなくて、ずれを孕む形で演奏されることが目指されていた。そうやって演奏されたときに、偶然に出現する和音を、ケージはアクシデンタルなハーモニーといって、喜んでいたという。(師シェーンベルクから、独自の和声感覚が希薄であることを指摘されており、またそのことを繰り返し自ら語っていた、その課題を、ついにここで乗り越えた、ということなのかもしれない)

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タイム・ブラケットの例。『Five』から

 

 

この、タイム・ブラケットの方式を、インターネットでのギグに当てはめてみることを考えた。ここでの自由度は、演奏者の自由度でもあるし、インターネットが生み出すレイテンシーでもある。私たちの声は、常に遅れて相手にとどくが、その遅れまでを許容して、お互いが長いフレーズをゆったりと演奏してみればいい。そこでは、遅れることを楽しむのが肝要。レイテンシーが生み出す時間の幅は、予期しないハーモニーをネット越しに出現させるはずだからだ。

こうした提案は、現代音楽グループに即座に了解された。一度、弦楽器同士による実演もやってみた。そこでは、スカイプの作り出すノイズまみれの中、レイテンシーは派手に発生して2秒から8秒近くの遅れが生まれた。おまけにマイクが互いの音を拾ったフィードバックまで発生して、全員が演奏を終えても音は続いた。その十数秒の間、ネットを経由して遅れてやってきた私たちの音たちは、にぎやかなカオスとハーモニーを奏でていたのだった。

 

 

 

 

 

 

日常はゆっくりと動きを止めようとしていた:2020年3月4月の音楽の話

 

 

いま思うと、いつも空ばかり見ていた。

といっても、感傷的な心象ではない。具体的に、煙草を吸うために窓を開けて煙をふかしながら、ベランダ越しに見える空を見る時間が多くなったということだ。2020年3月と4月の風景は、そうして見た空ばかりだった。

 

日常はゆっくりと動きを止めようとしていた。最初の自粛期間で、道を歩く人の数は次第に減った。道行く人の会話も聞こえなくなったし、夜も静かだった。

道だけではなく、自分の日常も固まっていくようだった。大半は自室でパソコンに向き合って過ごし、ごくたまに外出しては散歩をして近所の喫茶店に行く程度となった。インターネットで世界を覗き、世界の人とつながったが、それはそれまでの日常とは違うものだった。

 

それまでの日常は、喧騒と多忙で流れていくものだった。

日々の仕事に追われ、空いた時間には喫茶店で一服しながら、音楽や美術の議論や評論を読んだり、作家とのやり取りをしたりしてリフレッシュするのが常だった。週末にはコンサートなどに行くというのが習慣だったし、時間が作れないときは、それでもCDや音源を買って、もう少し空いた時間があれば自分でもノイズを作り、海外のレーベルに送ったり、ささやかだけれども世界中のネットワークの中でのコラボレーションや交流を楽しんでいた。

少し長い休暇が取れれば、台北に旅行して、新進のメディアアーティストたちと会って話をするのが楽しみだった。夏、冬、春と、連続して訪れて、台北にもようやく慣れてきたというところだった。それは喧騒の中を走り抜けるような感覚で、それなりに楽しい日常であったように思う。

 

それらのすべてが、ゆっくりと動きを止めた。コンサートは中止になったし、CDを買いに行く機会も失われた。海外との旅行はできなくなった。仕事はオンラインになったが、ネットを見ればコロナの話ばかりになって、緊張感が増していた。

何より喫茶店も一時休業となり、一服する場所もなくなって、窓を開けて空を見ながら煙草を吸うばかりの時間が増えることになったのだ。

 

そうして、舞台はインターネットに移った。ドイツの現代音楽グループに踏み入れたのは嬉しかったが、今度は自分の手元が空白になったような感じがしたのが、大きな問題だった。日々、流れてくる欧米の膨大な死者の情報を前に、それまで作っていたような破壊的なイメージを持つノイズは、馴染みがないもののように感ぜられてきた。1秒に音を30も50も詰め込んで、あてのないカタルシスの連続するような音の構想は、現実を前に、無力というより、ただ現実の写し鏡のように思えてきた。現実と少しずれたところに何かを生み出すべきだと考える向きには、要は手元の音楽が想像力を失ったように感じられてきたのだった。

手がかりを探しても、有名そうな思想家たちは、コロナの話だけをしていて、コロナの中の人間の話や、コロナの中のアートの話はしていないように見えた。空疎な掛け声は、社会生活には有用でも、音楽を作るのには何の役にも立たない。関心のあった即興演奏も、物理的な反応に焦点を当てていた傾向のものはどれも活動がストップしていた。また、多くの音楽家が、沈黙したり、コロナの話ばかりをするようになった。

 

アートや音楽は不急不要か、という議論があった。けれど、何かを作る側に立てば、そのような問いは意味をなさない。日々、何かを作るのであって、そのためのアイデアを探しているばかりにあって、必要かどうかはどうでも良いことだ。端的に、その問いはイエスかノーかで悩むジレンマをテーマにするだけで、退屈なもののように思われた。「どのようなものが」「どのように」製作されるべきか、が真の問いであったはずだった。

実際に、北京のアーティストたちを中心に、ネットでの中継が始まっていた。今では当たり前のようだが、ズームなどのソフトを使って生中継するということ自体が驚きだった。それに、彼らは新作を作り続けていた。どのようなものが、どのように、という問いへの答えの実践は、そういうことだと思われた。

 

さて、と一人で、煙草をふかして考える必要があった。驚くほどに手元のものは白紙になっていた。見るものは、空ばかりだ。

その空に、一本の線を引いてみることを考えた。線は、抽象的でもいい。携帯電話の電波が走るような、インターネットのネットワークが横断していくような、そうした軌道を考えた。ふとイタリアの哲学者マッシモ・カッチャーリが、ベンヤミンの天使などを論じる中で出していた「天使都市」の概念を思い出した。それは必ずしも良い状態を示す概念ではなくて、現代のテレコミュニケーション社会を批判的にとらえるもので、つまりは我々は技術の力で天使のように(天使同士はテレパシーで意思疎通を行うのだが)ふるまおうとしているが、我々はけっきょく肉体を持っているので、現実の貧困さが露出してくるというような、ある種のディストピア的な話だったと思う。けれど、それは今や、なんと日常のリアリティを指し示しているのだろうと思われた、このリモート会議や通信技術の中で、私たちを苦しめているのは、まさに身体の問題(疫病)なのだ。哀れに取り残された身体たちよ。

我々は天使にはなれないが、天使のようになろうとしている。この日常の、天使になり損なっている我々の交信を、空を走る線のように考えることはできないだろうか。それは清く美しいものではないかもしれない、ひび割れ、甲高く、壊れ、それでも中空を進んでいく、そうした力なく途切れそうなノイズであるかもしれない。

 

荒唐無稽な考えかどうかはわからない。が、白紙状態の時はそんなものであると何かの本で読んだ。白紙は空に変わり、そこに線を引く。ただそれだけのことだ。

持続する音をつなげてみることを考え始めて、作ったデモを送ったコラボ先の作曲家ドンゾーさんにこのアイデアは即座に了解された。そうして一つの作品である「Tele-Path」は作られた。

 

 

 

 

即興と作曲、歌と詩と電子の2020年代

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ラクスラー・オクテットのアルバムGLEDALECのジャケット

どうも、とうとう緊急事態宣言の中で、本格的な自粛期間に入ってしまいました。ほとんど外出もせず、もっぱらリモートでの日々です。そんなさなか、外にでたり遊びに行きたいという時間を使って、欧米の即興や作曲のシーンをポチポチ、YouTubeで探していたりしました。

で、そういうこうしているうちに、なんとなく面白いことをやっていそうな人たちが見えてきたので、少しまとめてみましょう。考えてみれば、もう2020年代。即興でポストモダンや、物質的な感触というところが言われてから20年や30年が経とうとしていて。そうしたところにはないシーンも、出てきていそうです。

ここには、そうして見つけた動画を並べてみます。あまり説明はしないので、むしろ直接にリンクを見てもらえればいいなと思います。

あえてまとまりをいうと、まず女性が多いというか、これまでやはり男性が多かったシーンに対して、女性が活躍しているというのが、見えてきます。それに伴って、アスレチックというか運動というか戦闘というか、そういう雰囲気ではない(かといってスピードが遅いわけでも、テンポがゆったりしているわけでもない)光景が、少し広がっています。ちなみに、ここに出てくる多くの人は、1980年代以降の世代で、すでに2010年代前半には若手として現地では注目されていたようです。激しいというよりも、豊かな音楽性で支えられたものが多く、またメインのプロジェクトとして歌をフィーチャーしたものなどもやっているようです。この辺りは、近年、カトリーヌマラブーなどがいうような情動(アフェクション)の流れのようなものとの並行関係も、少し感じてしまいますが、やや穿ち過ぎかもしれません。

では、しのごの言わずに、素晴らしい音楽を。とりあえず貼っていきましょう。

 

 

まずは、ハンブルクのシーンから。ハンブルクは独自の音楽シーンがあって、メディアアート施設のZKMもありますので、様々な活動が盛んです。とくに注意を惹いたのは、非常に安定した演奏で、作曲作品も演奏するEMNアンサンブルです。このギターの方は、ジョンゾーンのギター作品を録音などもしています。では、こちらです

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次に、おなじくドイツの、ケルンのシーンです。ここはライブハウスがしっかりしているようで、そこで多様な音楽が演奏されているようです。中でも注目は、弦楽だけの7人によるアンサンブルをまとめているジュリア・ブリュッセル。メロディとリズムを7人が多様に入れ替わりながら演奏していて、とても素晴らしいです。

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続いて、ベルリンのシーンで、洗練された演奏のマリア・デバッカー。現代音楽の演奏の中に、ジャズのアドリブが埋め込まれて、情緒や構築が入り乱れているような、かなり質のたかい繊細さと力強さのある音楽と思います。

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さて、そこから。オランダで2010年代から、各地のフェスでも活躍しているのが、カヤ・ドラクスラーです。本人はピアノを演奏しており、静かな反復の連続と断絶が、それ自体非常に美しく感じられます。また、オクテットも主宰していて、こちらも大変に素晴らしく、ロバート・フロストの詩に曲をあてた新作も大注目でしょう。出身はスロベニアで、現在はオランダやデンマークなどを拠点にしているそうです。

まずはピアノソロを。

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次に、オクテット。ここでサックスの一人はICPオーケストラなどでも活躍している人です。またヴォーカルが2人おり、弦楽も入っているという、かなり特殊な編成です。冒頭の荒々しいところから、幽玄とする歌曲に進行していくところなど、ぜひ

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最後はニューヨークで、すでによく知られていますが、メアリ・ハルヴァーソンもあげておきましょう。ギタリストで、激しく濃厚なNYのシーンから、非常に大胆に構成した音楽を作り上げてきたといってもいいように思います。主宰しているオクテットや、ロバートワイアットに影響を受けたというユニット、コードガールの歌なども、とてもいいように思います。

まずハルヴァーソン・オクテットの音源から。ユーモアのある明るい旋律が、複雑なアンサンブルによって形作られていきます

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ユニット、コード・ガールのMV。

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【追記 電子音楽家たち】

さて、ここで、ハルヴァーソンと一緒に活動している人を見てみると、また面白い人たちがいることを知りました。電子音楽家です。といっても、機械だけをいじっているのではない、作曲もするし、演奏もするし、器楽演奏とも一緒にやる、といった感じです。

いいかえると、音楽ができる(器楽作品を書ける)人が、電子楽器の演奏や開発もやっている、ということになります。技術者だけでなく、音楽のできる技術者が作る音楽、というのは20世紀半ばの現代音楽で、ヴァレーズはじめ一つの夢であったかもしれませんが、そうした人たちが登場してきているというわけですね。21世紀です。

 

いくつか注目の人を貼ってみましょう。まず1人は、サム・プルタという人で、普通に検索すると器楽の現代音楽が出てきます。他方で、本人はエレクトロニクスを操っていて、モジュラーシンセとアイパッドなどでのソフトシンセを使用し、主にライブエレクトロニクス(演奏中の他の奏者の音を取り込んで、リアルタイムで変調する)の演奏をしているようです。

まずその姿を見かけたのは、こちらのアルバム・トレーラーから。この映像自体もかなり素晴らしいのですけど、19秒あたりから早くも姿を表すモニタと、そのモニタをテーブル上に置いて操作する影があり、次第に高速操作へと移っていきます。

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さらに、自身の作曲した器楽曲の演奏風景も。完全にクラシック型の器楽曲で、そこに自らもライブエレクトロニクスで参加しています

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さらにアンドレアス・エドアルド・フランクは、そのサム・プルタの作品も演奏しながら、やはり本人が演奏するタイプです。こちらは、指揮付きの器楽曲で、真ん中にパーカッションと電子楽器奏者(おそらく本人)が陣取って、緊張感のある構成を生み出しています。

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またフランクはy-bandというユニットでも演奏していて、ここでは即興の余地のある作曲作品で、電子楽器が絡む作品群を演奏するユニットのようです。ここでは、シンセやターンテーブルで参加していて、つまり他人の作品を演奏するということも継続的に積み重ねているようです。やや激しめの曲調のものですが、それを演奏しているところをどうぞ。

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はい、即興と作曲、ということで、即興性を含む作曲作品が近年すこしずつ見られるようになってきていると思いますが、ここでは〈技術と作曲〉というか、技術的に音を生成する(=ジェネレイトする)楽器と、作曲作品の間にいる、いわばテクノロジーコンポジションの両極の中にいる音楽家たちがいるようです。先にも言いましたが、まるで20世紀半ばの現代音楽が描いていた、一つの夢、一つの未来を、今や軽々と現実のものにしているシーンがあるようで、大変興味深く思いました。フランクなどはノイズにも関心があるようで、このあたりも少し追っていきたいです。

 

【追記その2】

この記事を書いた後で、最後の映像で演奏されている作品の作曲家、アレキサンダーシューベルトが、電子音楽・アートの世界的な賞であるアルスエレクトロニカ2021年の金賞を受賞しました。受賞作は、次にあげるもので、説明を見るとAI支援がされている映像と音楽の作品です。一応見ていくと、どうやらストーリーがあって。冒頭に実際の音楽家たちをAIが質問して、読み込んでいく・・・そして途中から暴走を始めて、最後にはAIが取り込んだ仮想人格が、電脳空間上で漂っている、という感じになっているようです。これは、ライブエレクトロニクスが、まず実際の音や映像を読み込んで、それを変調していくことと並行していて。技術的なテンポと、ストーリー展開がうまくマッチしているような気がします。音楽的にも10分あたりのノイジーな箇所はなかなかいいかと。おすすめです

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もう一つ、すでに古典的となっているらしいものとしては、映像と音が同期する作品があります。こちらは、メディアアートの学生たちが何度も見て勉強するような(まさに古典)ものとなっているようです

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シューベルトの名前は、すでによく見かけます。例えば、アンサンブル・アンテルコンタンポランが演奏しているこちらなどは、電子音響の美学を、器楽曲に移し替えたもので、器楽の領域を拡張するような位置付けにあるのだろうと思われます。

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ということで、そんなところでした。2020年代、楽しみな感じですね。

 

 

 

19世紀の遺産

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コモンウェルス加盟国の地図。ウィキメディアコモンズから


 

さいきんのUKの文化動向を見ていると、いわゆるブラックというか黒人を主題にしたものが増えてきているように思います。ロンドンを中心に、イギリスはある程度の多文化社会を作り上げているように思うのですが、その中で、とりわけコモンウェルスと言われる地域というか、南ア・オーストラリア・中南米などと、いわば世界的なつながりを見せているところがあるようです。このへんは、21世紀のUK文化を捉える上で、とても重要なように思われるんですね。

それで、たまたま歴史に詳しい人が身近にいるので、ちょっとこうした点についての流れを、代わりに書いてもらおうかと思いました。では、ちょっと書いてもらいましょう。

 

どうも。UKの、海外との関係ということで、連邦というのの話ですね。ありていにいえば、これは大英帝国の、その後の話です。植民地とか、20世紀後半にどうなっているのか?という問題。あんがい、このへんって、教科書とかでは習わないかもしれないですよね。自分も専門ではないので詳しくは書けませんが、ざっくり概要のポイントを見ておきましょう。

 

まず前提は、大英帝国です。19世紀。世界の3分の1を支配したとか言われるものですね。世界中に植民地を持っていました。植民地。

植民地とは、簡単にいえば、支配している場所ですね。そこには統治機構がある以外は、住民には、何の権利もありません。支配だけされていて、税金とかを支払うように強制されている(もちろん、中の社会には法規制があったり、支配機構がとりたてている人たちもいたかもしれませんが、少なくとも自分たちの政府はありませんでした)。

それで、自分たちの政府を持つ、というのが、独立ですね。植民地独立運動は、20世紀半ばに世界中で見られて。UKの場合は、インドのガンジーネルーなどが有名ですね。で、そのときに、出てきたのがコモンウェルス(連邦)です。

 

これは、ちょっと順番を入れ替えますけれども、植民地が独立しようとしたとき、UK本国政府が「わかりました、独立して政府を作ってください。ただ、その後も私たちと関係を続けましょう」と言って、別の国際組織に入るように勧めた。そして実際にインド独立政府は、その組織に入りました。簡単に言うと、それが連邦(イギリス連邦・英語ではCommonwealth)です。

このコモンウェルスは、帝国ではないものです。代わりに、互いに独立した政府(国家)同士で作り上げるものです。つまり、それぞれが平等な関係であるということですね、トップはイギリス国王がつとめていますが、そのもとでUK本国を含めて独立政府が平等になってできています。

 

で、UKは、植民地独立がさかんになったとき、各地で独立を認めて、代わりにこのコモンウェルスに加盟するように進めました。一部の中東地域をのぞいて、アフリカから中米・オーストラリア、インドなど、かつての大英帝国領であった地域が、これに加盟しています。ちなみに現在も続いていて、54カ国が加盟しています。データがウィキペディアなので雑ですが、総人口が21億人、領土で地球上の3分の1を占める地域とされています。

支配関係はないので、相互に、経済協力や外交、文化面での協力関係があります。もともとはUK本国がトップのように作られましたが、平等であるようにするために名称も「ブリティッシュコモンウェルス」から、「コモンウェルス・オブ・ネイションズ」に改称しています。日本語にすると、「国家連邦」ですね。巨大な国際組織で、これが大英帝国から生まれ変わった、20・21世紀のUKの対外組織です。

なお、これはかなり独特で、例えばフランスなどでは、アルジェリア戦争に象徴されるように激しい独立戦争を経験しています。UKは、むしろ植民地の独立をあらかじめ受け入れて、そしてこちらのコモンウェルスに移行するように、時間と交渉をかけて進めていきました。

 

 

こうしたコモンウェルスとの関係は、様々です。特に20世紀半ばには、UKは「移民法」というのを制定して、コモンウェルスからの移民にはUK市民権が付与されるようにして、人的な移動を促しました。この時に、ジャマイカや南ア、インドなどからやってきた人は、その後に家族を作って、すでに3世代・4世代になっています。もう完全に英国人ですね。

他にも、留学で優先的な措置があったり、文化・経済面などでも交流があります。

また、大きいものでは国家の外交方針として、このコモンウェルスも位置付けられます。20世紀半ば以降のUKの外交方針については、よく言われるところでは「3つのサークル(three majestic circles)」と言うのが知られています。これは二次大戦後にチャーチルが(チャーチルは45年の選挙で、福祉国家を謳った労働党に対して、なぜかアカ批判を展開して敗北、野党になって遊説していました。状況を切り取った「鉄のカーテン」演説なども有名ですね)演説で述べていたこととされていて。UKの外交で、3つの、どれも重要で、どれも平等に考える必要のあるものを挙げました。

一つは、アメリカですね。もう1つはヨーロッパ。もう一つが、帝国つまりコモンウェルスです。これらを平等に扱えば、UKは世界的な発言力を維持しながら、うまくやっていけるだろう、ということですね。そして、実際に20世紀後半の外交は、これに沿って進んでいると見なせると言われています。

例えば、UKはユーロを導入しませんでしたが、それはヨーロッパだけに取り込まれることを避けるためで、連邦でも力を持っているポンドを維持するためであると言われました(これはマーストリヒト条約の付帯条項として、ユーロ非導入が明記されることになります)。一方で、21世紀に入って、イラク戦争が起きたとき、理由もなくアメリカに協力して参加したということがありましたが、2010年代の報告書で、このプロセスは無条件でアメリカが孤立した場合は協力するという外交方針に沿ったものだった、ということが指摘され、批判もされました。こうした事柄は、3つのサークルの方針が、非常に強くUKを縛っていて、なおも作動していることを示しているようにも見えます(少なくとも、これをまず踏まえる必要があるでしょう)。

もっと裏返していうと、UKはEUを脱退しましたが、実はUKにはもう一つ、コモンウェルスという巨大な国家連邦を持っているんですね。脱退の時に「世界から孤立するのではないか」という文章を見ましたが、それは少なくとも間違っている。ただ、このコモンウェルスだけに頼って国際的地位を維持できるかは、別問題ですね。しかしながら、実際に脱退してしまったので、UKには光り輝く活路として、このコモンウェルスが待っていることは間違いないでしょう。これからも、ここでの様々な関係が作られていくと思います。

 

 

 

はい、物知りぶった言い方でしたが、説明してもらいました。アフリカから中米まで、世界中に広がっているんですね。UKにいる移民を家系に持つ人にとっては、むしろ大きなパースペクティブとして開けているかもしれません。

ちょっと踏まえておくと面白そうだなと思い、そんなところでした。2020年代、大きく変わる国際関係の中で、どんな文化が生まれてくるのか、楽しみでもありますね

 

 

 

プログラム・即興・言語 ライブ・コーディングの愉しみ

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最近つくったアルバム。BPM380や550といった値を用いています



4月末から、ライブ・コーディングという方法を使って、音楽を作り始めました。そのことを書こうかなと思います。

きっかけは、前に書いた[ _ _ _ ]のライブを見たことですね。彼らはスーパーコライダー(supercollider)というソフトを使って、3人でそれを共有してネット上で共演していました。そこからかなり興味を持つようになって、ゴールデンウィーク前に準備をして、はじめてみたというところです。

参照しているのは、田所淳さんの『演奏するプログラミング、ライブコーディングの思想と実践』(ピー・エヌ・エヌ新社、2018年)です。ちょっと高めの本ですが、使うソフトはほぼフリーなので、機材代だと思って購入。実際、たいへんに役に立つというか、1からライブ・コーディングについて教えてくれる貴重な内容でした。

 

1 ライブ・コーディング入門

使っているのは、その本に出てくる「Sonic-Pi」というソフトです。ソフトに大きく「ビギナーのためのライブ・コーディング」とあるように、初心者でも使えるようなシンプルな設計、ケンブリッジ大学のサム・アーロンという人が開発したものだそうです。オープンソースということで、ログインや登録なしで、ダウンロードすればすぐに使えます。シンセやサンプルも入っていて、単体ですぐに音楽が作れます。

少しだけ、ライブ・コーディングでどういうことをしているのか、自分なりに説明してみましょう。下の画像にあるように、プログラミング言語を打ち込んで、音はソフトがそれに従って出してくれます。よく使うのは、〈ライブ・ループ〉で、その下に書いたことをループします。何をループさせるかということで、テンポ(BPM)や音の種類(シンセ・サンプル)、音の長さ、音量、位置、などを指定します。

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そのあとに、音と音の間の休符を〈スリープ〉として設定すると、一まとまりが完成です。

 

このようになっているために、〈スリープ〉のあとに、さらに次の音について書き込んで、さらにその次の・・・とやっていくと、すなわちビートができます。そして、それをループさせれば(「ラン」を押すと〈ライブ・ループ〉がループし始めます)リズムトラックができるわけです。

ライブ・コーディングの場合は、その名の通り、演奏中に数値や設定を変えることができて。テンポや休符の長さ、シンセの切り替え、また新しい音を追加して書き加えることもできます。醍醐味。

また、この〈ループ〉の一まとまりを、もう1つ、もう1つと追加していくこともできます。そうすると、リズムのレイヤー(層)ができて。頭の音を合わせる指示もあるので、次第に複雑なビートを作っていくことができます。

 

2 ランダム

さらに、というか、ここが大事なところですが、これらで数値を設定していくわけですが、それをコンピュータにおまかせでランダム処理することもできます。「rrand関数」というのがあって、「rrand(A, B)」とすると「AからBまでの間でランダムに選択」という処理になります。例えば音程なら「rrand(ド、シ)」とすると、1オクターブ内で音をそのつどランダムに選択するように設定できるわけです。

もう1つ、コイントスと言われる設定もあって、こちらは確率で、「コインを投げて表だったら○、裏だったら×」のように処理を指示できます(この場合は2分の1ですね)。それで、さらに「10回に1回の割合で音を出す」などのような設定もできます。この処理も、指示を書いたらあとはコンピュータにおまかせです。

 

3 即興

それで、こうしたことを一通りためしたあとで、気になったのはランダム機能です。本来なら、このソフトは、先ほど書いたようにビートを簡単に作ることができて、その場で変化させることも簡単なので、必ずしも楽器に習熟していない人でも、音楽を作ることが簡単にできます。そうした用途が一般的かと思うんですね。

ただ、ここで気になったのは、即興ができるのではないかということです。どういうことかというと、いわゆる即興演奏は1960年代にデレク・ベイリーらが検討を重ねて、ある種の理論化がされてきたわけですが、そこで言われたのは「従来の音楽の文法から自由になること(ノン・イディオマティック・インプロビゼーション、通称フリー・インプロはこれを指します)で、そして実践としてはある音と次の音が、従来の伝統的な慣習とは何の関係もない形でつらなっていく、そうした音楽でした(結果として、デレク・ベイリーのギター演奏はウェーベルンの曲に非常に似ているように思います。ただしその場で弾いているので、ウェーベルンのように試行錯誤した果ての譜面としてではないのが、非常に大きい違いです)。

それで、このライブ・コーディングのランダム機能を使うと、各種の音のパラメータ(音程・テンポ・長さ・音量・休符)を、そのつどランダムに、つまりその場で前の音と関係ない形で設定し、生み出すことができる、のではないか、ということになります。言い換えると、音同士のつながりで、前後の関係がなく、もちろん従来の伝統的な音楽文法の拘束からも離れている、となるでしょう。理論上のフリー・インプロビゼーションが、これで実現できるかもしれない、という思いつきです。

 

そこから、そうした各種のパラメータに、先ほどの「rrand関数」を設定してみました。面白かったのはテンポのところにもランダムな設定を入れることができて、そうすると音が一回でる(ループ一回)ごとにテンポが切り替わる。全く同じ音程でも、不自然なリズムのようなものが生成されてきました。この部分までランダムにできるなら、他の部分もできるはず、と進めて、今はそうした即興(ソフトが演奏するフリー即興)を試すことを、やっています。

  

4 アルゴリズムと音響の夢

かつて、音響派と言われた議論がありました。中でも注目されていたものの1つは「オヴァルプロセス」という作品です。これはアーティストのオヴァルが作ったソフトで、「なんでもいいのでデータを放り込めば、それを使ってソフトが音楽を自動生成する」というものでした。これにはかなり夢があって、まず1つにはソフトが音楽を自動生成するということ自体に、非常に大きなロマンがあったように思います。もう1つは、そこで出てくる音楽が、おそらくは反復などのない、不定形なノイズであって、従来の音楽・文化的伝統から解き放たれた、異質で異様な音楽が奏でられることになるだろう、という夢もあったように思います。実際、オヴァルプロセスで作られた音楽は、ほぼ全てガーガーギーギーというだけの、(いわゆるグリッチした)シンセノイズという趣でした。音響派が、ちょうど一般化したPCの時代に出てきたものであることを考えると、コンピュータ時代における音楽を考える際の、それまでの人と音楽の関係とは違う、新しい関係についての1つの夢が、ここにはあったように思います。

 

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最近のライブ・コーディングの画面。ほぼ全てのパラメータにrrand関数を入れてある。上から二行目に確率17分の1、BPM30から380の間でランダムに設定しているのがわかる

ひるがえって、ライブ・コーディングのソフトで、コンピュータがプログラミング言語にもとづいてアルゴリズムで自動生成(ここで定義した形での即興演奏)をしているのを聞いていると、そうしたかつての夢が現実のものになったことを感じます。さらには、そうした人とコンピュータの間で生まれてくる音楽が、今や極めて身近で、また自在に操作できるという状況にいることも感じられます。最近は現代音楽でも、かなりの部分がソフトウェアを使った計算などによって成り立っているようで、コンピュータが人間にはなかなか処理しきれない細部を計算して、形として出力するような、そうした時代に立っているように思います。

最近、ここ数日では、ランダム関数の部分にBPM380や550といった、普通ではありえない速度の数値を入力して音を作っています。おそらく、人間の手では演奏しえない高速の領域で、はたしてどんな音ができるのか、最近はそのようなことを考えています。

 

 

 

ここで記したアルバムはこちらです

pseud(o)- 

https://equantrecord.bandcamp.com/album/pseud-o

 

 

 

 

 

 

デジタル世界で距離をこえて共有すること [___]について

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ライブ画面。縦横3列ずつ、9つのコーディングが並行して行われる。画面はさらにそのスクリーンを、サンダーソンのいるギャラリー壁面に投影した映像が流された

 

先日、[___]というイベントを見ました。オンライン、フェイスブックのライブ上で、主催は香港のエドワード・サンダーソン、演奏は中国(メインランド)出身の三人で、Li Song,  Jia Liu, Shuoxin Tanです。三人はいずれもイギリスやドイツ在住で、距離が離れている。予告では「a collaborative algorithmic music performance」とされていました。なかなか面白く、かなり興味深かったので、メモしておきます。

ちなみに、サンダーソンはここ数年、中国(メインランド)の実験音楽・即興シーンについて、観客であるとともに短いレビューなどで知られています。イギリス出身ですが、数年前から香港の大学院に籍を置いて、中国の実験音楽電子音楽についての博論を準備しています。

演奏者のうち、リソンについては、個人的に知っていて、3年前ほどに彼が観光旅行に来た時、渋谷でお茶をしたこともあります。在イギリスで、ソフトシンセや振動する物を使った即興なども行っています。ヤンジュンとも共演したり、元不失者のキヤス・オーケストラの熱心なファンでもあります。あとの二人は、女性でしたが、知己ではありませんでした。少しずつコミュニケーションを深めていければと思います。 

 

さて。

内容は、画像を見てもらえれば分かりますが、モニタ上に、幾つかのライブ・コーディング(直接に打ち込んで音を操作する、シンセみたいなものです)が、並列でならんでいます。そして、それを遠隔で演奏する、というものですね。これが、大変おもしろかった。

もう少し細かく見ると、三人は、それぞれ横に並んでいて、左・真ん中・右と、担当が分かれていたようです。また、それぞれは縦に3つずつ、コーディングのシンセを並べていますね。ですので、合計9個のシンセが並んでいるわけです。

音の操作は、かなりシンプルになっていて、数字を打ち込むと、音が変わるようです。また、どのシンセに数字を入れるかは、かなり自由度が高いようで、他の人の担当のところでも数字を入力できたかもしれません(要確認ですけど)。

 

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開始当初の画面。コーディングはまだ上2列のみで、次第に追加された。左隅ではいわゆるスレッドのように演奏者による「遠隔でのコミュニケーションとは何か」ということについてのやり取りがなされている

それで、特におもしろかったのは、このようなシステムを作ることで、三人が、遠隔にいても、相互に即興的に音楽を作っていけたことですね。つまりリモートで、インタラクティブで、インプロヴィゼーションをやっている。

これは、これまでこの1年で様々な取り組みがありましたが、かなり画期的なことのように思います。特にリモートについては、どうしても遠隔によるタイムラグがあるので、ズームなどを使った即興では困難がありました。ネット越しでの即興演奏というのは、実は想像されるよりもかなりむずかしいということがわかった一年であったと言っても、言い過ぎではないかもしれません。

そして、ここでは、それが回避されています。どうして回避できたかというと、画面を見ればわかるというか、画面そのものを三人が共有しているシステムを作っているから、ですね。言い換えると、通常ズームなどでも画面共有はできますが、一人分の画面を全員が共有するのが一般的で、三人が同時に介入できるような画面共有はなかなか難しいと思います(ズームはその点で、あくまで会議用のシステムなのでしょう)。しかしここでは、三人が同時に操作できるシステムを、作ってしまった。

また、コーディング/ソフトシンセという形で、完全にデジタルな楽器に転換していることも、大きな特徴だと思います。そのことによって、アナログないしアコースティックな楽器が必要とする空間(楽器の響きは空間で生じるので)や、それにともなう音質のずれ、時間のずれが、一気に解消されています。

裏を返せば、ここでは、アコースティックの持つ力や、身体性のようなものは、消去されています。それによって、通常は困難である、距離をこえた、遠隔での集団即興パフォーマンスが可能になった、とも言えるでしょう。

 

おそらく、ここで捨てているものは大きい。ですが、そのことによって、可能となる領域の拡大へと一歩を踏み出したように思います。内容は、下にリンクを貼りますが、かなり充実していて面白かったと思います。

 もう一度いいかえてみるなら、彼らがやったことは、ライブ・コーディングをネットワーキング・ミュージックの仕様に変換したこと、となるでしょう。もっと言い換えるなら、彼らの楽器は彼らの手元にあるのではなく、デジタル空間上にあって、それゆえに、お互いに離れた様々な場所から一つの演奏ができるようになったのだと、言ってもいいと思います。

それぞれが違うタイムゾーンにいて、昼だったり夜だったり、ほとんど地球を一周するほど離れているわけですが、彼らはライブコーディングのシステムを共有しています。ただし、それはどこかに物質的にあるのではなく、デジタル世界の中にあって、インターネットを介してそれを全員が共有する。それによって、遠隔地での同時・相互干渉的で即興的なパフォーマンスが可能となった。そのためにアナログな場所や空間や響きを捨てて、一方で同時的な共演を獲得できた、ということになると思います。この辺りが、とても面白いと思いました。

 

小さいイベントでしたが、ライブ動画の観客にはセドリックやロルロルロルもいて、なかなか注目のイベントでした。また内容もそれにふさわしいように思いました。

ということで。新しい試みが、まだ続いていることを知って、とても面白かったイベントでした。

 

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